能登瀬村に鎮座する。土人は青木大梵天王社と称す。
境内に、地元民が息長宿禰王の墓という古墳がある。『扶桑略記』裏書の延長六年(928)五月二日の条に、「坂田郡山津照子乃明神・犬上郡山田明神の位書に印を謂ふ」と記されている。山津照神が息長氏の本拠地の産土神であったため、重んじられたと推測される。
『新抄格勅符抄』に天平元年(765)に近江国の封六戸を賜るとあるなど、奈良時代より朝廷に重視された。『日本三代実録』によると、貞観八年(866)閏三月五日に近江国従四位上山津照神が正四位下の神階に昇叙している。往古より大社で、二十七ヶ村の総社でもある。
寛平九年(897)、近江国甲賀郡と野洲郡の郡司が、甲賀郡飯道明神、坂田郡山津照明神、野洲郡三上明神と兵主明神に国家鎮衛を誓願するため、年分度者二人を甲賀郡金勝寺に授けられたいと近江国衙に申請し、認可された。国家から年分度者を授かると燈分料として出挙稲を得て、その利息を寺院の運営に充てることができた。奈良時代以降、律令国家は定額寺という称号を与えて私寺の統制を図ろうとした。
十一世青木武蔵守以盛の子である以忠の時、冷泉天皇の宣旨を賜って北陸道総管となり、越前城に居城した。その子・頼忠の時、後鳥羽天皇が坂田郡に行幸され、建久年中(1190-1199)に頼忠は越前から甲賀郡に戻り当地へ帰り、姓を源氏に改め剃髪して龍山と号した。頼忠が箕浦川で遊んでいると、石の上に観音像を見つけて崇敬し、山の下に安置した。朝廷に奏上して青木梵天王と称したことに、青木五社総廟の名は由来する。青木五社神廟は次の通り。第一社は青木大組武蔵守時長、第二社は将軍武蔵守利仁、第三社は武蔵守某、第四社は武蔵守吉信、第五社は伊伝武蔵守。
その孫の成忠は家声を保ち、順徳天皇の詔を奉じて本姓に戻った。三十一世の利依の時、永禄(1558-1570)の兵乱で城が落とされたが、青木廟は難を免れた。境内には新宮・八幡・春日社・天神社がある。後鳥羽天皇の行幸には、菊桐の紋章を寄附された。暦応二年(1339)十月四日に、後光厳天皇より宣旨を賜って勅願所となった。
参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)
山東町史編さん委員会『山東町史』(山東町、平成三年)185、186頁