能登瀬村に鎮座する。土人は青木大梵天王社と称す。

天平元年(765)に近江国の封六戸を賜る(『新抄格勅苻抄』)など、奈良時代より朝廷に重視された。『三代実録』によると、貞観八年(866)閏三月五日に近江国従四位上山津照神が正四位下の神階に昇叙している。往古より大社で、二十七ヶ村の総社でもある。

寛平九年(897)、近江国甲賀郡と野洲郡の郡司が、甲賀郡飯道明神・坂田郡山津照明神・野洲郡三上明神・兵主明神に国家鎮衛を誓願するため、年分度者二人を甲賀郡金勝寺に賜わりたいと近江国衙に申請され、認可された。国家から年分度者を賜ると燈分料として出挙稲を得、その利息を寺院の運営に充てることが出来た。奈良時代以降、律令国家は定額寺という称号を与え、私寺の統制を図ろうとした。

十一世青木武蔵守以盛の子・以忠の時、冷泉天皇の宣旨を賜り北陸道総管となって越前城に居城した。その子・頼忠の時、後鳥羽天皇が坂田郡に行幸され、建久年中(1190-1199)に頼忠は越前から甲賀郡に戻り当地へ帰住、姓を源氏に改め剃髪して龍山と号した。

頼忠が箕浦川で遊んでいると、観音を石上に見て崇信し山下に安置した。朝に奏して青木梵天王と称したことに、青木五社総庙の名は由来する。青木五社神廟は次の通り。第一社は青木大組武蔵守時長、第二社は将軍武蔵守利仁、第三社は武蔵守某、第四社は武蔵守吉信、第五社は伊伝武蔵守。

その孫・成忠は家声を保ち順德帝の詔を奉じ本姓に戻る。三十一世・利依の時、永祿の兵乱で城が堕とされ、青木庿は災を免れた。境内には新宮八幡春日社天神社がある。

後鳥羽天皇の行幸では、菊桐の章を寄付された。暦応二年(1339)十月四日に、後光厳帝より宣旨を賜い勅願所になった。

境内に、息長宿禰王の墓と伝えられる古墳がある。『扶桑略記』裏書の延長六年(928)五月二日条には、
坂田郡山津照子乃明神・犬上郡山田明神の位書に印を謂ふ
とある。山津照神が息長氏の本拠地の産土神であったから、重んじられたと推測される(『山東町史』)。


参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)414、415頁
山東町史編さん委員会『山東町史』(山東町、平成三年)185、186頁

米原市能登瀬
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