大永寺村にある。曹洞宗、丹波国村雲村洞光寺の未寺。壽昌山と号す。建久元庚戌年(1190)、当国菱野の領主山田氏の創建で、壽昌院という天台の古刹だった。『無住國師道跡考』に、山田次郎重忠。本州春日井郡山田庄小墾田居(後に小幡とする)建久八年(1197)三月。重忠先考重満十七回忌により壽昌院を建て今の大永寺が是で、天台宗だったと見える。しかし、永正十七年庚辰(1520)の兵火で、堂舍仏閣灰燼となったのを、檀越山田氏の一族等が悲しみ、翌大永元年(1521)、伽藍を再造して旧観に戻し、(『國尻』に、大永寺村大永寺は古寺の舊跡で、川村の産岡田伊勢守時常が、大永二年(1522)に再建したたことが記されている。岡田氏は山田氏の裔孫であるといい伝わるので、そのようなことあろう)丹波の洞光寺から栢悦和尚を招き、中興開山として、天台を改めて今の宗とし、もとの院號を山號として、年號から寺號とした。和尚は天文三甲午年(1524)九月三日に没す。
『張州名勝志』には、勅シテ大永寺ノ號ヲ賜フと記す。開山の栢悦道根和尚は、大化知幻禅師の號を勅諡されるなど大德であり高徳の僧であったので、奏聞を経て勅許を得て名付けた寺號なのだろう。そのうえ延曆寺・貞觀寺・仁和寺・恩祥寺等をはじめ、近世でも寛永寺などの寺號をつける寺々は、いづれも勅許から名付いた例である。
こうして岡田氏宮司村(或は宮地とも書く。大永寺村の古名である。)で、三百九十石の田地を寄附されたが、その寺領は天正の頃没収され、(小幡の城主岡田與七郎。其子助右衞門。孫長門守等、みな当寺の檀越だったが、天正十二年-1584-長門守信雄公の怒りを買い、殺害され、寺領も没収された。)堂宇も衰廃し、慶長の末伊奈備前守検地の時(1614-1615)、由緒正しい古寺として、もとの寺領のうち若干を附け、岡田伊勢守も造営を加え、什物等を寄附された。こうして東照宮の御社を建て、また天満宮(当寺のもとからの鎮守という)の社を境地の外に祀り、ともに鎭守とする。当寺に岡田氏代々の位牌があるため、美濃揖斐の領主岡田将監も来詣して、祭祀が絶える事は無かった。
本尊 釋迦の座像。惠心僧都作。本堂は岡田伊勢守善同の経営。
寺宝 天満宮の一軸は菅公の自画像で、北野の松梅院より伊勢守に伝わる神像にて、当国三天神の一つである。実に霊験いちじるしい。古瀬戸の茶壺二つ、これもまた伊勢守の寄附である。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)