幡豆城ともいう。熱田大宮司家領であり、千秋昌能の父季氏が築城して、脇屋義助や宗良親王が滞在するなど南朝の一大拠点であった。
羽豆神社と同じ所にあり。 幡須崎の條下に、日和山といひし是なり。中古熱田大宮司築きてこれに居れり。其後脇屋刑部義助暫く此城に住す。正平年中一品將軍宗良親王また此城に住居し給ふ。『太平記』に、暦應三年九月十八日、脇屋刑部卿義助、美濃の國根尾の城にたて籠りし時、土岐禪正少弼・同刑部大輔頼康等に責め落されて、郎等七十三人をめしぐし、微服潜行して、熱田大宮司の城、尾張の國波津が崎へ落ちさせ給ひ、十餘日滞留して、敗軍の兵をあつめ、夫より伊勢・伊賀を経て、吉野殿へぞ参られたると見え、信濃宮の傳に、一品宮良親王は、十餘年の春秋を上野・信濃の間に送りむかへさせ給ひ、正平二十四年の夏、光資を信濃に留め置き給ひて、尾張の國犬山へ出でさせましし、同國羽豆崎より御船にめされ、伊勢路を経て芳野へ御上りありとしるし、細川勝元の『霊蘭集』といへる醫書にも、尾張國番頭崎の城が、士卒の手負人等風邪に應冒せられしを、黄龍湯を用いて救療せしよしにしるして、古き城址なり。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)