小牧街道の村落で、国君(尾張藩主)の御参府・御帰国等に木曽路を通りなさった時の官道にあたる。農家が長く軒をならべ町屋のようである。
『延喜神名式』また『本國帳』に「味鋺」とかくのが正しいが、中むかしから「鋺」の字を「鏡」に誤って、『沙石集』に「尾張國味鏡といふ所」と記し、康正二年(1456)造内裡段錢并國役引付に、「十貫文、玉泉寺領尾州味鏡分段錢」と見えるように、諸書に誤って記し、当村天永寺の古縁起には鏡の池という霊池があった為、味鏡山と名付けたとさえ附会して書き止めたので、世の人はよく迷ったが、國君の源明公(尾張藩九代藩主徳川宗睦)はよく思い明かし、正しく古きに復すべしと命じたため、公にも私にもその惑いは晴れることになった。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)