駒野城は海津郡城山村字駒野の「城山」に在る。戦国時代に高木氏が築いた。「城山」は南濃平野の端に兀立し、標高数十メートルで、東は急に傾いて高須・今尾を俯瞰する。西・北・南の三面はやや緩く傾く。丘上には土塁や塹壕の址が残り本丸の地形が優れている。現在は西方中腹の一郭を拓いて城山小学校が置かれている。
高木氏は、源頼光五世の孫信光が大和国高木村に住したことから氏とする。子孫は伊勢に移り住み、さらに石津郡駒野の移り、釜之壇に居を構え、丞助・貞政はここで生まれた。養子の丞助と貞久は多病で継がず、子の彦六郎貞次が弘治二年(1556)九月、斎藤新九郎高政(義龍)より西駒野附近六郷を宛がわれた。齋藤氏が亡びると織田信長に属し、永禄十年(1567)十一月所領を安堵する。
天正八年(1580)十一月には、織田信忠から今尾附近に五百四十二貫五百二十文の地を与えられ、翌年十一月十日には新たに九十七貫文余を加増された。信忠の没後は信孝に属し、その亡き後は駒野に閑居して無楽と号した。天正十二年(1584)に没す。貞久の子に彦七郎貞家、權右衞門貞利、勝兵衞貞秀・彦之助貞友・平兵衞貞盛がいた。貞家は永禄十一年(1568)五月今尾にて戦死し、その子・彦太郎貞俊は祖父に養われ、郡戸近辺を護った。貞利は今尾近傍を護り、子が無く弟・貞盛が継いだ。彦之助貞友は家督を受けて駒野近傍を領し当城を守り、共に織田信雄に従った。
天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで、高木氏兄弟は、秀吉の招きに応じず、一族とともに小牧の陣営で家康に拝謁した。その後、権田織部佑泰長と天野清兵衞某が奉行して駒野城を修築した。五月二十一日には、一族四人連名で采地一萬貫文を賜る。さらに十一月、貞俊は石津郡安田城を賜い、翌年七月にはさらに九百十七貫七百文余の采地を賜った。秀吉と信雄の和議が成ると、そのまま所領を保った。
天正十八年(1590)、信雄に属して小田原陣に従う。しかし同年八月、信雄が秀吉に逆らい、出羽国秋田に配流されるに及び、高木一家もまた流浪して甲斐国に至り加藤光泰の許に身を寄せた。
文禄の役(朝鮮出兵)に出征し軍功を挙げた。慶長二年(1597)徳川氏に従い、やがて関ケ原の戦いでの軍功により多良を領した。寄合交代美濃衆高木三家に属した。
参考
『濃飛兩国通史』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)9、10頁