牧田宿は、中山道関ヶ原宿から分かれて東海道に至る伊勢路の要地のみでなく、牧田川沿いに、取江栗笠舟付の三湊に通ずる牧田街道の分岐点にもなっていた。
北濃や名古屋・桑名から京都への上り荷物は川を運ばれてこの三湊につき、ここで荷物を牛馬に積みかえ、牧田街道を琵琶湖畔の朝妻湊(米原)へ送られた。この陸上輸送を九里半廻しとよぶ。

安永四年(1775)笠松郡代所へ差し出した『牧田宿差出明細帳』によると、当時の牧田の人は農業の間に関ヶ原宿から取江・栗笠への三里を御年貢米等の荷物を運搬して駄賃取りをしていたとある。『濃州侚行記』によると、街道沿いの村に長屋門など構えた百姓など四・五軒あったそうだ。

  • 助郷は元禄七年の定めで十二箇村、石高8062石余が属す。多良 白石 明徳 小倉 大跡 岩道 上ノ郷 祖父江 飯積 綾野 久徳 照田
関ヶ原・牧田両宿の紛争

慶長一六年(1611)に伊勢路の牧田宿が関ヶ原宿へ荷物を付けずに、旧道平井道を経て今須宿へ荷物を付け通したことから争論が発生した。幕府は中山道の確定にともない、上り荷物は関ヶ原宿、下り荷物は今須宿で継ぐよう定めていた。当時下り荷物は上り荷物に比べ少なく、今須宿の訴えによれば百分の一ほどもなかった。今須宿は代官頭美濃国奉行大久保石見守長安の代官所で、その手代鈴木左馬助の管轄下にあり、旗本竹中丹後守重門の采地の関ヶ原宿より有利な立場であり、今須宿の要望を容れた妥協案が講ぜられた。上り荷物の三湊から船揚げ荷物、牧田・野口・長松からの荷物は今須宿での継立が可能となった。

上り荷物には牧田宿へ送られた三湊からの船揚げ荷物が近世初頭には相当量あったことが分かる。

牧田の語源

寛喜三年(1230)の巡回使が初夏だというのに「蒔田荘」で降雪があったことを急遽鎌倉に報告した。これは二年後の貞永の西濃大飢饉の前兆であったが、歴史的に大切な所は初めて「牧田」と同韻をふむ郷名が表記されていることである。

この地は、古代から駅馬が駐留した不破の関にも近く、平安時代の初めには兵馬を飼育する「牧」としての性格を持っていたとされる。南宮山と養老山脈とのポケットにできた丘陵地と、藤田川と牧田川が形成した小扇状地では、水利に近い灌漑された一部を除いて大部分が乾田や畑作地で、放牧の他に飼料や田畑の草木肥料・生活の薪炭料として利用されていたのではないだろうか。時代はやや下がるが牧田上野の麦房神社付近では麦類畑作の伝承が残る。

参考
『上石津町史 通史編』(上石津町、昭和五十四年)117、118、346-350頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)

大垣市上石津町牧田
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