蜂屋の領主、岸勘解由信周の砦。
天文十三年(1544)八月、斎藤道三に美濃を追われた土岐頼純(朝倉貞景の娘婿)を支援するため、越前朝倉軍は揖斐谷から西濃へ侵攻し、斎藤方は敗戦を重ねた。さらに九月初めには、織田信秀も兵五千余を率いて木曽川を渡り、◎加納に迫った。
二十二日、尾張勢が◎稲葉山城下の井ノ口を焼き払い、夕刻夜営のため引き揚げようとした。道三はその隙をつき、奇襲。一度崩れた織田方は立て直せず、信秀の弟信康や織田因幡守、同主水正ら二千余が戦死する大敗を喫して退いた。道三はその日の内に感状を与え、竹腰次郎兵衛や徳田又八らと共に当城主岸孫四郎(後の岸勘解由)も感状を受けている。
永禄八年(1565)九月、織田信長による美濃侵攻が本格化する。はじめ信長は、勘解由の武勇を惜しみ投降を促したが、主君の斎藤氏との義を重んじ拒否した。信長は当城の西、高畑山に本陣を構え、内通していた◎加治田城主佐藤紀伊守と共に夕日方面と蜂屋方面の両面から攻撃を開始した。勘解由は城兵と共に午の刻(正午)から酉の刻(午後六時)まで約六時間にわたり抗戦。しかし長男信房が討死し、敵兵が城内に乱入するに及び勘解由は城に火を放ち、妻と共に自害した。
当城には、蜂屋兵庫頭も居城した。
参考
『美濃加茂市史 通史編』(美濃加茂市、昭和五十五年)263、264頁
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)