斎藤帯刀左衛門尉利永までは禅法を崇敬した。在京中は日峯和尚に参禅し、在國の間は雲谷和尚に帰依し直旨小印を得て、武儀郡に汾陽寺を建てて氏寺とした。
その子利藤から日蓮宗に帰依し、革手府に持是院を建立し、晩年は自らこゝに居住した。文明五年(1473)には、一條兼良公の扁額を賜り「法城」と称した。この兼良公はかつて文殊の里に居住し、そこには藤原定家卿の舊館跡があった。兼良が下向の折、加留美(軽海)の里の岡野を通り、若宮を拝して詠んだ歌が名所集記に見える。
若宮の 紅葉散りしく岡野原 にしきあらそふは あゆの艸かな
いかなれは 舟木の山のもみち葉は 秋はくれとも こかれさりけり
利藤は法名を「妙椿」と號した。権大僧都法印の僧綱軽で、外には禅法を信じながら、内には妙法蓮華経を持った。これ以降、斉藤の嫡家は代々妙全に至るまで、みな日蓮宗に帰依することとなる。
宝徳二年(1450、庚午)三月、京都妙覚寺の住持・世尊院日範僧都を請じて厚見郡岐阜に一寺を建立し、鷲林山常在寺と号した。寛正六年(1465、乙酉)、一條関白兼良公の扁額を求め、寺号を賜った。二世蓮登院日審は妙覚寺の住持で、文明十一年(1479、己亥)三月、妙椿が僧都より招請した。同十二年(1480、庚子)二月二十一日に妙椿は逝去し、法号は開善院権大僧都。後継の利国は百日追福のため祖師(日蓮)の像を造立し、当寺に安置した。三世日護上人は、明応七年(1498、戊午)十二月七日、大猷紹興大徳の第三忌追福のため、後継の勝千代が妙覚寺より迎えて法事を勤めた。永正三年(1506、丙寅)二月十日、当寺に住まわせた。
のち、豊後守利隆より請われ、日善上人の弟子日運上人が入った。この日運は、長井豊後守利隆の弟で、幼少より日善上人に随身して学は顯・密の奧旨を極め、弁舌は富楼那に劣らず近代の名僧であった。初めは南陽房と号した。
この頃、日善上人の嫡弟に法蓮房という者がおり、北面武士の松波左近将監藤原基宗の子であった。仏教と世俗の知識に通じて南陽房を常に引きまわしていたが、ある時どういう心が芽生えたのか、三衣を脱ぎ捨てて還俗した。西の郊外に住み、奈良屋某の娘を娶って、その家を継ぎ山崎屋と改め、松波庄五郎と名乗り、毎年美濃國へ来て油を売るようになったのであった。常在寺日護上人の推挙により斎藤家へ出入りするようになると、乱舞や音曲に秀でたため、長井藤左衛門が賞賛すること限りなかった。美濃太守(土岐氏)もまたその素行が乱れ、酒宴や遊興を好んでいたため、長井は松波を太守にお目見えさせた。太守の寵愛を得ること甚だしく、長井の家老・西村三郎左衛門の名跡を継がせた。
その後、西村は主君・長井の素行が正くないのをみて、享禄三年(1530、庚寅)正月十三日、岐阜において長井夫婦を殺害した。長井・斎藤の一類は大いに怒り、押し寄せ討ち取ろうとしたが、西村は密かに囲みを抜け出し、太守の方へ逃げ込んだ。長井の一族共は太守に申して、首をはねよと怒り狂ったが、南陽房日運は昔を思い、不憫に思って太守へ願い出て、心を尽くして長井の一類と和睦させた。 太守からも内通があり、江州の佐々木義秀が来て、今後は遺恨なきようにと烏帽子親になって、「秀」の字を与えて「秀龍」と名乗らせた。秀龍はこの恩により寺院を修造し、数ヶ所の庄園を別状にて寄附し、子二人を出家させ日運の弟子とした。これが常在寺第五世日曉、第六世日覚上人となった。のちの義龍、龍興も崇敬し、庫裡、方丈、鐘樓、堂塔に至るまで立派に造立し、正法寺領の下村、竹腰領、日野領、清水領、芥見領、那波領、印食領、三宅村にて寺領五百貫文を寄附した。
その後、日韻上人の代まで寺勢はそのままだった。信長公の岐阜入城の時に寺領を召し上げられたが、また日野村にて百貫文を賜った。天正十一年(1583)の兵火で朱印状が焼失し、秀信卿から朱印状は得られなかったが、寺領は据え置かれた。しかし、慶長五年(1600)、秀信卿の御生害ののち寺領は断絶した。
今に残る物としては道三の画、義龍の像ならびに歌のみである。道三の画は信長公の北の方(正室)の寄進、義龍の画は龍興の寄進である。本尊の文殊菩薩はかつて左金吾桂岳宗昌が建立した本巣郡文殊堂の本尊である。永禄年中(1558-1570)に文殊の要害を守った際に、兵火で焼失し、堂舍は断絶したため、斎藤家との由緒により当寺に安置された。文殊堂の法輪塔は秀信が落ち去った時に失われた。
参考
『美濃明細記 巻第十三 茂々久岐根付録』(伊東実臣、元文三年-1738)