慶長九年(1604)の中山道の半原-釜戸経由から細久手-大湫経由の新道へ付け替え後、大湫宿と御嵩宿の間の継立の大変だった。大湫宿と御嵩宿の間は四里半の山路と難路で、また大湫宿の定人馬数を超える継立は御嵩宿が担当して負担が大きかった。

そこで御嵩宿と大湫宿の間に細久手宿を開設し、慶長十五年(1610)大久保石見守の命を以て宿驛と定められ、伝馬を始めた。大湫宿同様に定人馬数は十人二五疋だった。慶長十四年(1609)にはまだ仮宿であったが全焼し、宿老国枝氏に宿を復興させた。

定数は人夫十人、馬二十五匹で、賃銭は上り(御嵩へ二里三十二町)が人夫一人につき六十七文、馬一匹につき百四十文であった。元禄改定の助郷は十四箇村、1万270石である。

  • 助郷の村
    日吉 肥田 山内 川合 定林寺 淺野 郡尻 大富 下石 高山 土岐口 戸狩 月吉 上ノ郷

其郷の儀上下のために候間、新町を立新田をも發たちんをもつけ傳馬をも可仕候。左樣候得はみたけ大久手のためにも候條、當意の切發分は出置候人も多集新田とも多切候は檢をもこひ、相當に御年貢等可納所者也以如件
慶長十五年戌八月廿七日  大 石見
土岐郡ほそくて村

(:その郷の義は上下の為にあり、新しく町を立て、新田を開発し、賃銭も付け、伝馬も行う。そのように整えることは御嵩・大湫の為にもなる。当意の切り拓く分は出すので、人を多く集め新田を拓いた折は検知も乞い、相当に年貢を納めなさい。よって件の通り申し渡す。


村高は無高で山村氏の知行地であった。問屋は二人で本陣の山栗氏と平岩の坂井氏が当たり、年寄は二人、宿方は二五戸で運営した。町並は三町四五間、宿内戸数平均60-80戸で旅籠屋25軒ほどと大湫より小宿だった。

慶長十四年(1609)・寛政十年(1698)・文化十年(1813)・安政五年(1858)に宿中全焼し、尾張藩が復旧させた。文化・安政の大火では南蔵院のみ類焼を免れている。

宿に関わる墓地は北500mの本陣山に所在する。

参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)

瑞浪市日吉町7687番地
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