石枕村をいう。もとは岩枕とも書いた。

むかし、当地は美濃の垂井の辺りから、尾張國新溝の驛に通る大道でだったが、宿を求める旅人を、石の枕に当ててゝ打ち殺して所持品を盗んだ姥の悪霊を神に祀った里であるので、このように名付けたという。同様の物語は諸国に多く、武蔵・常陸等にもいい伝えられ、石枕の本尊というのもある。また俗に

行きくれて 野には伏すとも宿かるな 淺草野べの 一つ家のうち

(:道中で日が暮れて、たとえ野宿をすることになったとしても、決して宿を借りてはいけない。あの浅草の野辺(現東京の浅草)の一軒家には。

などという故事もあるが、地名・村名で残っているものはあまり無い。ここは幕末頃も村名にこのように呼んでおり、たゞしく跡が残っている。


『鹽尻』(最低限の現代語訳を加えています)
尾張國石枕の里は、昔東國に通じる路であった。驛舍の老婆、旅人が宿をとれば、臥床の下に石の枕を隠し置いて、寝入った頃その枕にあてゝ打ち殺し、物を取り、屍を埋めるなどの事が長年あったが、かの老婆が死んでその霊がたゝりをおこしたので、里人は位牌を祀って神社を建てたが、後に稻荷と呼んで、村の生土神(うぶすな)とした。

その後、府下(名古屋城下)の稲荷神社に移された。なお、この神社があった場所は不明である。


『群書類從』本の今川了俊の『二言抄』の奧書によれば、

此本就積善庵主瑞禪借失。重而不見之者也。了俊自筆本。其子孫今川彈正弼方借出。仍享徳二年癸酉八月二日下差。於尾州丹羽郡稻木莊岩枕郷吉祥庵一覽之。依懇望桃井讃州之手跡也。不可許他家者也。明應六年六月日書寫之

(:この本は積善庵の主の瑞禪に借したところ失ってしまい、二度と見ることが出来なくなった。了俊自筆の本をその子孫の今川彈正弼から借りる。享徳二年(1453、癸酉)八月二日に送られる。尾州丹羽郡稻木荘岩枕郷吉祥庵で一覧した。熱心な望みによって写した桃井讃州の筆跡による。他の家には許されないものである。明應六年(1497)六月のある日、これを書き写す。

とみえ、 古い地名である。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

江南市石枕町神明108番地
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