※詳細な場所は不明。丹羽郡大口町外坪におく。

外坪村にある。(中島郡奥村にも城跡)彌三郎は織田家に仕えた。元亀四年(1573)七月義昭将軍が信長公の恩を忘れ、邪意を差し挟み、宇治の槇島に楯籠りなさったので、信長公は怒ってその島を攻め落とされたとき、彌三郎は宇治川の先陣をとることを心掛け、同十八日の未明に、稻葉侯父子をはじめ、二万騎余りで宇治川を越えさせた。先陣を渡して比類なき高名を取ったのである。義昭将軍は槇島を退去されたのち、信長公は柳山に控えて居られたが、「今日の先陣は誰にかあらん」など、人々が評していたのを信長公聞きなさり、「梶川彌三郎に相違あるまじ」と仰せられたが、果たしてその通りだった。いかにして知りなさったと、人々は感じたという。

彌三郎の娘は、美濃の八神の領主毛利掃部助廣盛の内室だったが、その子毛利金右衞門廣義、大坂御退治(大坂夏冬の陣)両度共に従い、武名を表した。

また二宮村の常福寺に、同人壽像(=存命の内に造った)の画がある。文禄丙申(1596)仲秋比丘月翁の讃がある。その絵はたいへん古雅である。繼(かみしも=裃)上下を着て、扇を持ち座っているが、頭は月代(さかやき=額から頭頂部までの禿げた部分)があって、髪はうすく、絲鬢(いとびん)というもののようで、顔立ちは温厚で武威もある。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

丹羽郡大口町外坪1丁目141番地