愛藤山蓮光院小松寺という。小松寺村にあり。真言宗、山城国上醍醐報恩院の末寺。天平年中(729-749)行基菩薩がこの山の中腹に一宇を創建し、自作の観音の像を安置すると、夢に観世音が白衣の姿となって、和歌の上の句を、
補陀落乃岸宇津名實乃與流邊加戸
(:ふだらくのきしうつなみのよるべかと
とあれば、行基句を継いで、
松乃宇良盤爾咲加賀留藤
(:まつのうらはにさきかかるふぢ
と付けたという。夜が明けて山の頂きを見れば、紫藤が今を盛りと咲いていた。そこで夢の霊瑞により、愛藤山と号したという。
その後承安三癸巳年(1173)、内大臣平重盛が、国毎に一宇の道場を建て、家門永久の祈願を修し、当国ではこの地を再興して、小松寺と名付けられたと、寺伝にいう。天正年中(1573-1592)の兵火で伽藍・佛像・経典等は残るものなく消失し、僧徒も離散したが、戦が静まった後、住僧の及慶法印帰り来て仏閣を再建し、やゝ旧観に戻した。前田徳善院法印は、幼少のとき及慶法印の弟子となり、剃髪したが、常に武の道を好み、丹羽長秀の吹挙により、秀吉公に仕え、大僧正の僧綱ながら、京都の町奉行を勤め、後に五奉行の一人となった。その頃、法印は秀吉公に請い、寺領山林等を拝領し寄附したという。
池ノ坊・本小泉坊・知泉坊・宝蔵坊・梅心坊などの多くの僧坊があり天保期(1830-44)には現在の入鹿用水のところまで広がっていたようだ。
寺の守護神は、明治の神仏分離により独立した神社として残っている。かつて水利は七つの溜池に頼っていたが、現在は地区中央を流れる入鹿用水に依存し、池は耕地や住宅地へと姿を変えた。
小松寺集落は山沿いに細長くあったが、明治以後は南部に移った。マツタケを産したといわれる小松寺山も土砂を削りとり小松寺団地となり一変してしまった。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
小牧市史編集委員会『小牧市史 本文編』(小牧市、昭和五十二年)242、243頁