城主正休の先祖が切支丹だった。
慶長十七年に美濃の有力大名の子で四年前に洗礼を受けた青野城主・稲葉正次の子・十兵衛が、夫人教育のため宣教師を招き、一族・家臣五十余名が洗礼を受けた。(『切支丹大名記』『パゼス』)
系図
稻葉正成 | ||
政貞 | 稻葉重通か女 | |
女子 | 同上 | |
正次 | 同上 | |
正勝 | 春日局 | |
正定 | 同上 | |
正利 | 同上 | |
正吉 | 山内康豐か女 |
稲葉正成の長子・政貞は三代将軍徳川家光の乳母・傅役、春日局の義子に當り、『寛政重修諸家譜』によれば、実は林新助政行の子で、実父政行が近江瀬田で戦死後、母は政貞を携へて正成へ再嫁した。政貞は初め三十郞と称し德川家康の小姓として仕え、後年祖先林氏の本領美濃国十七條に於て千石を賜わるが嗣子なく、弟・正定繼嗣となり、孫六右衞門に至て嗣なく断絶した。
また父正成の不破郡青墓村青野の領地は、次男(実は長男)正次から末男・正吉に継がれたが、子・石見守正休が貞享元年殿中に於て、大老堀田正俊を殺害し領地を没収された。
この十兵衞、政貞をも青野の人と誤って書いた先人があるから、其の系統を詳にする。
継母春日局が江戸へ召されたのは慶長九年で、その数年後になお局の義子がこの西濃の地に於て、 秘かに宣敎師を招き夫人に洋語を学ばせて、且つ一族家臣五十余名に洗礼を受けさせたのは一種の皮肉であり、また夫れが局の義子である丈けに一種の反抗的気概があつた事が窺われ、後年の殿中刄傷と併せて考えると、一族のどこかに殉教に近い熱と、そして強い気概を感知せざるを得ない。
参考:『尾張名所圖會 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)78-80頁