不破郡。小寺掃部が居城した。
父:稲葉正成
のちの城主の稲葉正休の先祖は切支丹だった。
慶長十七年(1612)、子で四年前に洗礼を受けていたた青野城主・稲葉正次の子である十兵衛は、夫人教育のため宣教師を招き、一族・家臣五十余名が洗礼を受けた。(『切支丹大名記』『パゼス』)
長子・政貞は三代将軍徳川家光の乳母である春日局の義子にあたる。『寛政重修諸家譜』によれば、実は林新助政行の子で、政行が近江瀬田で戦死した後、母が正成へ再嫁した。政貞は初め三十郎と称して家康の小姓として仕え、後に祖先の林氏の本領美濃国十七條に於て千石を賜わったが、嗣子なく弟の正定が継ぎ、孫の六右衞門の代で断絶した。
また父正成の青野の領地は、次男(実は長男)正次から末男の正吉に継がれた。しかし、その子・石見守正休は貞享元年(1684)江戸城殿中において、大老・堀田正俊を殺害し領地を没収された。
この十兵衞、政貞をも青野の人と誤って書いた先人があるから、其の系統を詳にする。
継母である春日局が江戸へ召されたのは慶長九年(1604)で、その数年後、局の義理の子が、秘かに宣敎師を招き夫人に洋語を学ばせて、家臣五十余名に洗礼を受けさせたのは一種の皮肉であり、またそれが局の義子である丈けに一種の反抗的気概があつた事が窺われ、後年の殿中刄傷と併せて考えると、一族のどこかに殉教に近い熱と、そして強い気概を感知せざるを得ない。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『尾張名所圖會 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)