河田村のうち、四ッ塚という地にある。古い塚が多く、すはら塚・からうと塚などというのをはじめ、大小十七・八箇所ある。そのうち寶永三年(1706、丙戌)十月にこの塚を開けて、石柩を出したが、その中に剣・鈴・磁器の類あったが、みな腐損していた。
『鹽尻』に、 葉栗郡河田村といって、大きな川に程近い里の古墳を平らにならそうと、大きな石棺を堀り出した。長さ九尺(約2.7m)、横六尺(約1.8m)。中には折れた剣、古い鍬、銅のかたまり、鈴に似たものもあった。磁器の壊れたものも少しあったという。「葉栗人麿(はぐりひとまろ)の塚なるべし」と見える。人麿は当国(尾張)の住人で、こゝの光明寺を建立した。天武・持統・文武の御世(673-707)に、柿本人麿・栗本人麿の二人の朝臣がいた。柿本は石見国人、栗本は尾張国人で、その姓氏の葉栗をもって栗本とも呼んだ。柿本・栗本の二人のひとまろが有った事は、他の古書にも見え、『百人一首一夕話』にもみえる。木曽川の向かいの栗木村はその旧地であるといい伝えられ、この辺りにも栗本氏の里人は多く、みなこの朝臣の遠祖であると崇敬し、その霊神を祀っている。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)