※詳細な場所は不明。名古屋市北区山田におく。

山田村の人。『沙石集』に、山田次郎源重忠は、承久の乱の時(1221)朝廷側で討たれた人である。弓矢に優れ、勇猛で、器量も人に優れ、そのうえ心も優しく民の煩いを思いやり、よろづ優れた人であったと見える。『承久記』に、墨俣へ河内判官秀澄・山田次郎重忠ら一千余騎で向かい、京方の落ち武者に組み落とされて討たれ、討ち残って落ち行きける中で、山田次郎申すには、「しかしながら、討手に向かった者ども、尾張川でも恥ずかしくも矢の一つも射ず、道の程も甲斐なく軍も整わず、主君の御尋あれば、何と答え申すべきか」、重忠は一戦せんと、杭瀬川の西に九十余騎で控えた。やがて奧岳島の橘左衞門が三十余騎で馳せ来て、御方を待つかとみえ、河も渡らず戦もせず。去る程に御方の勢が少々馳せ着いた。

河の端に立ち、向かいの岸にあるのは何者だ、敵か味方か、山田次郎味方だ、味方は誰だ、誠には敵だ、敵だ!尾張国住人山田次郎重忠だ!さてはと、矢合せし、やがて打って出て渡った。山田の次郞の郎等ども九十余騎、河の端に打ち下り、散々に戦う。その中に大弓精兵数多あり、河中で射立てられて流れる者もあり、痛手を負って引き退く者もあり。 討たれることを顧みず、乗り越え渡す。東国の兵雲霞の如く続き、暫く戦い、山田次郎は颯と引いた、と見える。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

名古屋市北区山田町4丁目36番地