上有知鉈尾山城

武儀郡鉈尾山に跡あり、上有知の北の山である。

承久の乱の余波

美濃国山田郷地頭職を領した源義光の玄孫・佐竹別當秀義は、山縣国政の婿という。

当初、山県国政の孫である上有知頼人頼資の子、経頼(頼綱)と頼保はともに「上有知蔵人」と呼ばれ当地を治めていた。しかし、経頼は承久三年(1221)の承久の乱において朝廷方(京方)に属して討たれ、頼保は播磨国矢野荘の下司職を相伝してかの地へ移った。

その後、佐竹氏が上有智を相伝したのだろう。季義は当国に住み法名蓮阿という。定義、貞頼、度義と続き、その子・次郎三郎義基(法名大印)は当国山口郷東西・上有知庄・彈正庄を領した。定義の弟・八郎三郎公淸(法名蓮意)、その子・藤義もまた当国に住み「佐竹」を称し子孫ありという。『尊卑分脈』は公清の條に、「號上有智、上有智相傳」と記してある。

上有知佐藤氏

のちに武儀郡の大部分は、上有知鉈尾山城主・佐藤氏が領するようになった。佐藤六左衞門方信、のちその子佐藤六左衛門才秀(斎藤一族云云、別名方秀)が継ぎ秀吉に仕え二万五千石を領した。才秀は、「才次郎」と称し天正十四年(1586)七月に下之保村高澤観音に寺領六石を寄進した。同十六年(1588)四月武藝八幡社にも状を与えた。文禄三年(1594)七月歿し、その子・才次郎方政が継ぐ。(日龍峯寺、山口氏文書、上有知舊記)

文禄(1592-3)慶長(1597-8)の二回の秀吉の朝鮮征伐では、美濃の諸侯も従って佐藤六左衞門が百五十人を派遣した。岐阜城主・織田秀信の旗下(西軍)として、慶長五年(1600)関ケ原の戦いの頃まで居城した。

参考
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)