源義光の玄孫の佐竹別當秀義は、美濃国山田郷地頭職を領した。山縣国政の婿という。(『尊卑分脈』)『明細記』美乃佐竹系圖によれば、その子・季義(『尊卑分脈』には弟)当国に住み法名蓮阿という。その子・定義、その子・貞頼、その子・度義を経て、その子・次郞三郞義基(法名大印)は当国山口郷東西・上有知庄・彈正庄を領し子孫あり。定義の弟・八郎三郎公淸(法名蓮意)、その子・藤義もまた当国に住み「佐竹」を称し子孫ありという。『尊卑分脈』は公清の條に、號上有智、上有智相傳と註する。そして山縣国政の孫に上有智頼人頼資があり、その子・経頼(『分脈』では頼綱、『山縣系圖』による)頼保とともに上有智蔵人という。
頼経は承久合戦に京方(朝廷側)となって殺され、頼保は播州矢野庄の下司を相伝してかの地に住んだので、佐竹氏が上有智を相伝すること、この後のことだろう。
武儀郡の大部分は上有知鉈尾山城主・佐藤氏が領した。六左衞門方信の子・六左衞門方秀は秀吉に仕え二万五千石を領した。才次郎と称して、天正十四年(1586)七月に下之保村高澤觀音に寺領六石を寄進した。同十六年(1588)四月武藝八幡社にも状を与えた。文禄三年(1594)七月歿し、その子・才次郎方政が継ぐ。(日龍峯寺、山口氏文書、上有知舊記)
文禄(1592-3)慶長(1597-8)の二回の秀吉の朝鮮征伐では、美濃の諸侯も従って佐藤六左衞門が百五十人を派遣した。(『濃飛両国通史』)
参考
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)429、430頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)26、28頁