寺伝によると、第三世遊円が天文二年(1533)四月大坂に赴き戦に参加し、その功労として証如より御自画御影を授与されたという。

天文元年(1532)八月二四日、山科本願寺が兵火で焼失し、証如らは大坂石山へ避難した。山科御坊の祖像を石山に移し、諸国から集まった門徒は石山を守った。天文二年(1533)二月二日には美濃・尾張・三河の門徒に向けて警衛の兵を募り、同年四月には飛騨・照蓮寺へ書状を送り上洛して加勢するよう命じた。このため濃飛門徒の多くは早速石山に参上し、本山を守った。

この背景には、室町時代から戦国時代にかけて形成された惣村の存在がある。惣村は、荘園制度から郷村制度へ移る過渡期に現れた寄合を「惣」を基礎とし、荘園制下の村と異なり村民の掟を惣で定めるなど自治的性格を持った。浄土真宗の蓮如は惣村ぐるみの布教と組織を基本方針とし、一揆という形の民衆運動に繋がった。当地では長嶋一揆や石山合戦に参加したと伝える寺は数ヵ寺ある。

関一政知行

石津郡多良時は、天正十年(1582)より同十六年(1588)まで関長門守一政が知行した。住居は伊勢高柳の知行所であった為、奧方諸共はしばらく此地に来て、御子息主馬殿が浄徳寺に誕生された。その後、関ヶ原陣の時に知行所では無かったが、先のしるべによって浄徳寺に居て合戦に出られた。

太閤関白秀吉公の御代には土岐多良ともに、木村弥一右衛門殿の御検知が天正十七(1589)に行われ、これを太閤検と申し伝え細検の始めなり。この時、大垣支配は天正十七巳巳年(1589)より慶長八(卯癸)(1603)歲まで出入し、十五年に及んだ。 (『多良物語』)

参考
『上石津町史』(上石津町、昭和五十四年)144-8頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)27、28頁

大垣市上石津町上原360番地
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