下小田井村と枇杷島村の堤の上、及び枇杷島橋の中島等に、弘化二年(1845)春に数千株の桜を植えて以来、いつも彌生(3月)の頃は、若木の花盛を争う。もとから品類も多いので、七日と限られる花の盛りも、遅きあり早きありで、彼岸桜・糸桜の(蕾が)ふゝめる頃から、山桜・八重桜の青葉がさすまでは、月を越えての詠む機会があり、雅俗の遊人集い来て、その賑わいは言語の及ぶ所に非ず。したがって花を賞する詩歌も多い。今は僅か一二を挙げて欠略を補う。
因に云ふ、元禄四年(1691)三月三日、芭蕉翁の門人府下の俳士且藁・丁々・杉峯・成菌・傘下・冬文・桃里・長虹・榎柢・文長等の十人、この川辺に来て、 曲水の宴などした事は、荷兮の撰の『曠野後集』に載せてある。その頃に花があれば、いと〳〵興多かっただろう、花が無かったのは残念である。その文章・発句などは、かの集に譲りここでは略す。
百信
宮櫻八千樹。弘化二年栽。花ハ發ク枇杷島。雙堤雲堆ヲ作ス。
弘化二年(1845)琵琶島の桜を遊覧したついでに、芳野の桜を自ら梅居の後堤に植えるとて、「人ハ植ウ櫻花千萬樹。我ハ移芳野一株春」(人は桜を千万植え、我は芳野の一株の春を移す)と記し、さらに思いを廻らし
けふ植ゑしよし野の一木行末はながふるさとの千本ともなれ 正韶
改元があった又の年の春、新たに千万の桜を公よりの仰せられたと、思いがけず広く栽えられたことを申し上げるとて
あな目出た花守神もこの國に弘く化出づる年となる世は 龍屋
琵琶島八景のその一つ、雙堤の桜花を
入りちがひ降るや川原の花吹雪 桃鳥
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)