西志賀村にあり。今は城の土居という。享和の頃(1801-1804)ここに碑が建つ。

気随の若君

政秀は中務大輔ともいい、信長公が吉法師殿(信長の幼名)と称して那古野の城に居たころ、父の備後守から林新五郞と共に家老に加えられた。

信長公は十六歳の頃、父が亡くなるが、朝暮武芸を専らとして他事を忘れ、我が意のままに振る舞って行跡は正しくなく、亡父へも不孝であった。政秀はこれを嘆いて、五箇条の諫書を捧げるなど長年諫めてきたが、とにかく気隨(思いのまま)であった。一度は国家をも治めなさるだろうと見て、乳児の頃から守り立ててきたが、いよいよ頼もしくも無く、君臣の間も不和になっていく。ただ自害して見せれば、御心を直されるだろう、と思い定めた。

政秀は領地の志賀村へ引きこもり、家老の山田久内という者を使いとして、澤彦和尚へ書を遣わした。
「諫書が逆耳の故、なにがし自害仕候、さあらば心を直さるゝ事もや候はん」
書き送ると、床に腰をかけて一刀を刺し、信長公を急ぎ呼ぶように言った。みな驚き、信長公へ注進申せば、これを聞き裸馬で駈けつけた。

「汝何としてか斯くはせしや」
と言って信長が脇差に取り付けば、政秀は床から下りて信長の手をとり、いかなる事であったのだろうか、しばらく申し上げると、信長公
「今日より汝の異見に従うべし、疵の養生すべし」
と。政秀はこれをご覧になると、腹を十文字に掻き切って、介錯なしに死ぬ。時は天文二十三年(1554)甲寅閏正月十三日の曉、行年六十二歳。信長公は死骸に抱き付き、御愁嘆限りなし。

古今、追い腹を切る者は多いといえども、主君の御心を直すために自害したのは、和漢(日・中)に無双の勇士かなと惜しまぬ人はなかった。これより信長公は行跡をよくし、やがて草創五君の一人となったのも、ひとえに政秀の忠義による。

政秀寺

こうして信長公から澤彦へ御使者があり、
「わが無器用を日頃諫めていたのに用いず、政秀が不慮に切腹した事は、父を亡くしたことよりも力を落とした。引導等を頼む」
とあった。そこで法名を功庵宗忠と付け、下炬(追善の辞)の頌(讃え)で「忠肝義膽太ダ稀奇。横ニ鏌鎁按ジテ所知ヲ忘ル。末後牢關鐵爐歩。一擧々五須彌ヲ倒ス」と唱えて一喝された時、信長公は声をあげて愁嘆した。龕(棺)は平手五郎右衞門・同監物兄弟が担ぐ。信長も御手をかけられた。

こうして那古野へ帰城したのち、澤彦に命じて、政秀寺を同郡小木村に建立した。(小木村は政秀の居城の地であったからか)寺領三百貫を寄附し、亡くなった後の冥福を懇ろに弔われた。

『安土創業録』『政秀寺記』の要を摘んでここに記す。『信長記』には諫書五箇條の文が挙げられているが、長いのでここでは省く。『織田軍記』『織田真記』にも記されてあるが、詳略あって一様ではない。また、連歌師宗牧の『東國紀行』に、「織田弾正(信秀)禁裡御修理の儀依被仰下、平手中務丞(政秀)まかりのぼり、御料物進納云々」と記し、宗牧が尾張へ来た際、那古野に到着したところを平手が出迎え、一座を興行したことなどが見える。武辺の義気のみならず、連歌などにも心を用い、文事も兼ね備えた風流な男であったという。今は中島郡三宅村の野口某という者が、政秀の裔孫と言い伝えられ、その遺物若干を所持する。

平手中務君碑

※現代語訳しています。

人は誰か死なないことはあろうか。死には鴻毛(水鳥の羽)より軽いものもあれば、泰山(中国の山で歴代皇帝が国家統一を報告)より重いものもある。その重さはどう対処するか(大儀があるか)に有り、その軽さはこれを決断することに有り。固く決心して仁を成す、その身を百にしよう(バラバラになる)とも本望である。

初め織田公の家督を継いだ頃、年少く、行をほしいままにする。中務君はしばしば諫めたが聴かず。最後は書をもって切諫(せっかん:目上の人を激しく諫める)し、退いて自殺した。信長公は衝撃を受け、天下を治めようという霸者の心が始めて生じた。応仁の乱よりこのかた、天下は混乱し、信長公は尾張から立ち上がった。群がる兇賊をほとんど殲滅し、功績は政秀による。祭典によれば、命を掛けて事に務めればこれを祀る、と。政秀の如き者はどうしで我が尾張人だけが祀るのだろうが。天下万世にわたってこれを祝すとしてもいいのではないだろうか。

諱(いみな)は政秀、姓は平手氏。中務大輔と称す。尾張の国春日井の郡志賀村の人である。信長公はすでに手厚く政秀を葬り、また一寺を建てて名にその諱を用いた(政秀寺)。こうして政秀の忠節を世に示したという。

ある人曰く、「(中国の忠臣)比干が胸を切り開いて心を取り出して死に、史魚が屍を置いて主君を諫めたことは烈しいものであった。しかし、我が中務君の克く、君心を正してその功が天下に及んだことに及ぶだろうか。ましてや、その子弟もみな忠勇であり、孫の監物汎秀は若くして、徳川への援軍に将として戦い、三保ヶ原で没し、父祖を辱しめなかった。この百世の栄誉を世に知らしめながら、今は後が無いのはどういうことだろうか。思うに(子孫として)現れる者がまだいないだけのことだ。必ずしも無いとはいえないだろう。そもそも彼の蒼々たるものを待つ所が有って出てくるだろう。善人を絶たないことは天の道である。」

そこで我らは共に石を志賀の宅跡に建て、この言葉を刻んで、後の人に告げる。また秦鼎に銘を作らせる。銘に曰く。

白虹貫ク。大白蝕ス。精忠之書。我何ニ從テ而索メン哉。

(:白い虹が太陽を貫き、太白(金星)が蝕まれる不穏な世の中に、精忠の政秀の遺書。我らは何に従い、求めれば良いのだろうか。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

名古屋市北区