丹羽長政の子息で、兒玉村にて生まれる。幼名は萬千代丸。十五歳から信長公に仕え、一方の大将を承り、向かう所必ず負ける事無し。元亀二年(1571)、近江の佐和山の城五万石を賜う。天正三年(1575)十二月、信長公が筑紫の武士の古い家の號をとって家人等に名乗らせ、長秀には惟任と改められる。
信長公没後、丹羽に戻す。信長公・信忠の御事があった後、御嫡孫の三法師殿を主君として信雄・信孝を後見とし、長秀は若狭国と近江の滋賀郡・高島郡を添えて預かる。天正十一年(1583)の春、秀吉公が柴田勝家を討ちなさった時、加勢して戦功を立てたので、本領の若狭に越前と加賀国の中二郡を添えて賜り、越前の北の庄に在城した。百万石または七十万石を領知したという。『張州人物志』に、叙従五位下任越前守と見える。
さて年頃、積聚(腹にしこり)が出来て、命が尽きようとする。長秀は憤り、たとひいかなる病なりとも、我命をうしなはんずるものは、まさしく敵なり。いかで其敵をうたでやはあるべきとて、腹かき切り、くり出して見るに、奇異の曲者こそ出でたりけれ。その形亀の如く、くちばし鷹の如くに尖りまがりて、脊中に刀のあたりたる跡あり。長秀みづから筆を取って、事のよしをしるし、わが跡の事をよきに計らい給ふべしと書きしたゝめ、腹切りたる刀に積聚の虫を添えて、秀吉公のもとへ奉る。秀吉公は大いにおどろき歎きなさり、自ら御筆を染められ、子息に所領を賜らん事、相違あるべからずとかたく誓いなさり、長秀はこの御返事を見て、今は思い置く事なしとて、死んだとある記に見える。『多門院日記』に、天正十三年(1585)四月十四日長秀腹をきり、同十六日死すと記す。また同郡味鋺村に長秀の宅址があり。いつの頃住んだのか詳らかでない。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)