※場所は不明だが当地域で

蟲(むし)供養。当郡西浦十四箇村・東浦十六箇村は、一年に一村ずつ廻ってこれを勤める。法会の式は東西ともに同じである。そもそもこの供養の淵源を尋ぬると、醍醐天皇の御宇(897-930)、英比丸がこの地を領し没した後、村民がこれを祀って供養したことにはじまるという。また「蟲供養」(定家卿の『明月記』にいへる御霊辻祭の類ならんか)と称する事は、農民が常に田畠の蟲(虫)を殺すので、諸虫の為に仏事を行い、その善根を公達の追福にしたことによる。

さて年番にあたる村は、正月七日に供養の本尊でなる三尊の阿彌陀仏(恵心僧都の筆)の扉を開き、八月の彼岸(四浦は入りの日、東浦は中日)に供養場を設け、念仏和讃(鉦太鼓にて拍子をとる)を執行する。この法會(良忍上人は當郡の産にして、後融通念佛を勧誘ありし其遺風の、こゝにのこれるならんともいへり)は俗徒のみ出仕して、僧を用いない。濱で執行するものを濱供養といひ、山にで行うものを山供養という。

中央に大きな假(仮)屋を構えて念仏の供養場と定め、小さな仮屋(三つあり。道場と号す)をおき本尊(甲州家の士・法樂太夫に政盛という者、後に当家に仕えた者だが、大阪落城の折に、太閤が常に帰依した三尊仏を取って来たが、ながて藪村に退き、この影像を寄附し、供養の詰衆に入った。この本尊はがこの三尊仏である。また政盛の塚も藪村にある)を安置し、大塔婆三四丈の丸木を立て銘文を記して(この塔場は後に村々の橋となった)、蟲の塚と定めた。

実にこの供養は、尾南第一の壮観であり、群衆の夥しい事は圖を見てしるべきであろう。

参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

常滑市