加賀井城ともいう。中島郡。起川の西。
城主の日比大三郎は、信長の美濃侵攻作戦の森部戦に斎藤方として戦ったが討死した。
その後、秀吉の頃、加賀井彌八郎秀望が八千石を領して居城した。彌八郎は美濃一族(不明)で、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで織田信雄に属し、神戸與五郎と共に楯籠り、秀吉が長久手より反転して攻め取られた。なお、秀吉は富田の◎聖徳寺に本陣を置いていた。
その落城のさい逃げようとした者たちは柵にはばまれ首五百ばかり討ち取られ、その首が蓮池の堤にかけられ、秀吉は「御覧」、首は池になげこまれ「今に首池と云てあり今は田なりと申し候」(『尾濃葉栗見聞録』)とある。
その際に一旦没落したが、再び一万石を安堵された。関ヶ原の戦(慶長五年1600)がまさに起きようとする頃、參河池鯉鮒驛(三河知立駅)にて暴行し殺された。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)241頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)28頁