※正確な場所は不明
飛騨國における鎌倉時代の守護は明らかでない。文治二年(1186)六月十三日の長瀧白山社寄進状に、公文樣權守藤原朝臣、地頭源貞康の名があり、これを地頭名の初見とする。建久四年(1193)十一月四日、賴朝は荒木郷(吉城)地頭職を右近将監多好方に賜った。これは前日に鶴岡八幡宮の神事に宮人曲を奏した恩賞である。政所の下文に「一國衙の課役に於ては、 先例に任せ其の勤を致すべし」と載されている。
正治元年(1199)十一月八日、好方は地頭職を子・好節に譲ることを鎌倉に請い、許容された。かつ彼地は守護使入部すべからずと、守護の濫妨は停止された。(『東鑑』)好方は京都の伶人・多近方の三男で、建久二年(1191)鶴岡八幡の遷宮の際に京都より招かれ、畠山重忠・梶原景季等に神楽曲を伝授し、十一月二十一日遷宮式に宮人曲を奏した。その帰路に際し頼朝は馬十二疋を贈る。尋ねて頼朝が神樂を大江久家に伝習させたことがあった。同四年(1193)冬、好方の子好節を召して十一月八幡宮の神事を行う。
好方は建暦元年(1211)六月八十二に卒し、好節は建保五年(1217)五月卒し子・好氏が継いだ、 その後は明らかでない。里人は、今の國府村大字宮地字殿村は多氏に因む旧跡であると伝える。
参考:『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)406、407頁