※詳細な場所は不明、跡形も無し。
中河原村の田圃にあって、数百株に及ぶ。林の中に勢至社があり。この地は庄内川堤と新川堤の中にあって、世外の勝地なれば、花の頃は府下(名古屋)の雅人、多く杖を曳いて、詩を賦し(:作り)和歌を詠じて、春の日の永きをわすれ、思わず暮れに及ぶも多し。
『醉月園詠草』
新川というあたりに、桃の花よき所ありと聞きて、友とする人四人して見に行きけるに、花はまだしくて(:未熟)、みなふゝみたるほどなり(:ふっくら)。盛んな頃に合って誰が先に心ゆくまで見るだろうなど言い合って、
打ちとけて誰見に行かんかくてだに桃のこひある花の下紐 森嘉基
:下紐は男女の仲が良い事を表す、例えば下紐のわりなく結ぶ契り(清須宿本陣より)
かくて酒のみ歌読みかわしなどしている間に、日も暮れ、帰ろうとて、
たゝまくの猶いかばかりをしからむ錦と見ゆるさかりなりせば 同
とひて見むこゝはいかなる仙人のすむらん宿ぞ桃のした蔭 黄中
咲きしより桃のいくたびむかひ見て遠く三千世の春やちぎらん 日潤
手折りてはなづかしからぬ花ながらよそめ床しき桃にもある哉 平野廣臣
弘化四年(1847)三月二日、道直が訪ねる。前の川に船をうかべて酒などのむ。舟よりあがりて中河原の桃を見て、
いつの代を避けてかこゝに住みつるととふべき程の桃の一むら 正韶
梅居子(『三国志』の欲の無い軍師の老人か?)にいざなわれて中河原に遊ぶ
此奧は誰がすむ桃の遠あかり 秋麿
句集
葉竹の透垣というものを見ると、趣きがあってよい。三月七日、中河原という所に行った。若々しく咲き続きたる桃の根元では、麥(麦)が雨ほしげに打ちそよぎ、風に落ちてくる雲雀(ひばり)の聲の下の庵に、麦を結び廻したものあった。只の田夫の家居とは見えながら、古物語などにも、何がしの律僧が逃れ行き、山籠りなどにある幽居のようで、目にも見ゆるばかり心憎い、もしくはさようの人にと思いよられるのは、この物のかたちが悪くないからであろう。住む人がらにこそ松も松、竹も竹なれと言うが、
世を世ともいはずや桃のひとつ竈 沙鴎
参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)