大森村にある。曹洞宗、白坂雲興寺の末寺。山号は佛日山。
往古は尼僧の地で正宗庵といったが、天文三年(1534、甲午)、雲興寺の大雲和尚が再建した。衰敗していた堂宇を修造し、普香山正法寺と名付け、曹洞の法地(正式な寺院)とした。その後、同派のうちに同寺号があり紛らわしかったため、安永三年(1774)八月に今の山号・寺号とした。
本尊の釋迦像、脇侍の文殊・普賢の三像は、仏師運慶の作で、佐藤継信、同忠信の母光明院玉花昌蓮尼の寄附である。継信・忠信兄弟は、陸奧國信夫郡の人・佐藤庄司元治の子で、義経に従い、所々の合戦に軍功あった。しかし兄は壽永三年(1184)三月十八日、八島で教経の矢先にかゝり、弟は文治二年(1186)正月十三日、苦戦して義の為に命を落した。母は悲歎に暮れ、尼となり、二子の菩提のために、都の仏閣や霊場を拝もうとして探し、この正宗庵の尼僧に縁があったことから尋ね来て宿った。そうして庵主に力を貸し、ともに協力して仏殿・方丈・庫裡・山門等の修復を加えたという。さらに故郷の出羽國にあった三像を移して、本尊に安置した。また、定朝が刻んだ地藏尊も取り寄せ、方丈に安置するとともに、兄弟の肖像を彫らせて掌善・掌惡の二童子に見立て、地蔵の脇立とした。あわせて霊牌を建て、兄を「吉祥院八過次信」、弟を「清光院劒勝忠信」と法号をおくり、永く追福の志を證した。またこの寺は年を経て、頽敗に至ることもあるだろう、そのときの修復の料にと、黄金を地下に埋め置き、本尊の蓮台の中に、人知れず文字を書き遺した。その文には『以後爲造立金子千枚。此御寺牛刀二日置之也。六月吉祥日』とあった。尼はここから陸奧へ帰っていったため、のちに当寺に碑を立て、「光明院王華昌蓮」と号した。
その後、年月を経て、兵火に罹り衰廃してしまった。寺僧と村民はこの時こそと心を合わせ、かの謎の文について考察した。牛刀は丑寅(北東)で、二日は間の字の草書かと、寺の丑寅の方角の地を堀り返して、かの千枚の金を探り求めたが終に得ず、闇に帰した。
天文年中(1532-1555)、大雲和尚が堂宇を再建しやや旧観に戻したが、天正十二年(1584)の長久手合戦のとき、また兵火に罹り、大破して住僧も無くなり途絶えた。それを寛文年中(1661-1673)に澄然という僧が村民と相談し、村の南の今の地に移して再建したという。
貞享五年(1688)二月、國君(尾張藩主)から黄金若干を寄附されたため、住僧はその恩に感謝して宝蓋を造り、本尊の頭上に掲げた。また名古屋の士・水谷某は、継信・忠信の像を修飾し、いっそう荘厳となった。播州明石郡奧畑村に、古くから佐藤庄司と名乗る者がおり、継信・忠信の末孫であるといい伝えられる。その家には、尾張の大森村にかの兄弟の位牌と木像があることを伝え、文政十年(1827)三月、書状を以ってかの地より連絡が寄せられたという。
眞清田清圓の『御廟の道しるべ』の当寺についての條に、「境内に古塚三つ、小さな五輪なり。兄弟并母の墓となん」と記す。 寺宝に貞治年中(1362-1368)書写の大般若が六百巻ある。『東遊記』には、「奧州白河の城下より一里半南に、才川という宿驛がある。この才川の末の高福寺という寺に、甲冑堂といって、甲冑の婦人長刀を持つ木像が二躯あるるが、継信・忠信二人の妻である」ことが記されている。
参考
『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)