西保城

見事な引き際の城主

安八郡平野庄西ノ保北方。今は百姓屋敷となっている。

本能寺の変で信長と共にする

不破河内守光治が、五千貫を領して、齋藤氏の頃から信長のの天正(1573-1592)頃まで居城した。後に安土山城代となったという。河内守の嫡子・不破彦三郎入道全忠は、信長の命により越前敦賀郡を領した。

のち光治の二男・不破彦五郎、天正十年(1582)まで居城した。同年六月の本能寺の変で信長が殺害された時に討死したと見える。

彦五郎の討死後、彦五郎の妹聟である稲葉右近大夫方通が、家臣等に名跡を継がせ居城した。同十八年に加茂郡和知に移った。

関ケ原の戦いで大垣城にて籠城する

のち、木村宗左衛門重廣(圖志では勝正)が七千石で、秀吉の頃に居城した。慶長五年(1600)関ケ原の戦いで大垣城で籠城し、九月十八日自殺した。子息の伝蔵重喜も共に自害した。八條村瑞雲寺に墓が在る。鎗、長刀あり。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)