安八郡。
文明(1469-1487)の頃、中島三郎大夫重長(美濃の斉藤氏麾下)、中島藤三郎重直、中島出羽守重元、中島内藏介重行と中島四代が七十年余りに渡ってここに居城した。
のち◎駒野から高木彦右衛門が移った。彦右衛門は信長に仕え、後に無楽と号す。家督は子の彦右衛門が相続したが自害した。
やがて、森寺清右衛門(五千石、池田勝入の家老)が、十四年ここに居城し、のち◎竹ケ鼻に移った。また勝入の臣の戸倉四郞兵衞が五千石でここに居城し、天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いで勝入が戦死した後にここを退いた。丸茂兵庫も住んだか。
その後、市橋下總守長勝(始名を五郎左衛門、父壹岐守長利入道一齋)が二万三百石で、天正十五年(1587、丁亥)に◎福束から移った。秀吉の時代からここに居城し、慶長五年(1600)関ケ原の戦いで一万石を加えられ、都合三万石余りを領した。後に伯州矢橋城(現鳥取県琴浦町)に移る。
元和五年(1619)より尾州領となり、竹越氏代々の在所となった。
慶長五年(1600)関ヶ原役後、慶長一二年(1607)に徳川義直が尾張に転じて、翌年より尾張一国の検地が行われた。家康の命によって義直の重臣は、名古屋城防衛のため要衝の地に給知が与えられた。元和五年(1619)、美濃国内五万石が尾張藩領となった。
同年、両家年寄の竹腰正信が三万石を拝領し、元和八年(1622)より安八郡今尾を在所とした。竹腰氏は、今尾周辺の長良川と揖斐川に挟まれた地域や、知多郡二千七百石、また伊勢湾に面した西浦を中心に知多半島中部の大草から海岸線に沿って給知が配置された。
竹腰氏の先祖は竹腰攝津守重吉入道道鎮(道塵)で、斎藤道三に仕え、天文十七年(1548)より永禄二年(1559)まで大垣城主だった。その孫の正信は徳川義直の同母兄にあたる。慶長六年(1601)に家康に仕えて甲斐で五千石を賜り、同十二年(1607)には義直の傳(もり-教育係)となって五千石を加増、同十七年(1612)には家康から一万石を、元和五年(1619)には義直から一万石を与えられ三万石となった。元和八年(1622)より安八郡今尾に住み、代々尾張藩附家老として犬山の成瀬氏と並び仕えた。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)
『養老町史 通史編 上巻』(養老町、昭和五十三年)