※個別の場所ではありません

西春日井郡中西南のはてで、尾張國の中央なので、古くから武家守護の居城の地として、清須府と呼ばれ、慶長御遷府の後は、駅舎(街道の宿駅)のみとなった。東海道から美濃路へ通じる宿駅なので、旅宿・休茶屋等が軒を連ね、町並麗しく、西国・中国・九州・四国の諸侯をはじめ、京都・大阪・奈良・伏見・長崎等の官人、江戸上下の輩、この地を経ぬものは無く、また勅使・院使の公卿・諸親王・御門主などの、たいへん尊い方々も、この地を過ぎなわり、諸国の商人・神仏参詣の貴賤、或いは朝鮮・琉球の聘使に至るまで、足を留めない事はなく、実に繁華の一都会というべし。境地殊に広く、当郡及び中島・海東の三郡に亘り、十二村合して、町並も数十町あり。清須という名は、『神鳳抄』に清須御厨と見えるのがはじめであるが、『古今六帖』の藻の歌に、「藻かり舟今ぞなぎさにきよ須なるあしべの田鶴の聲さわぐなり」の「きよす:は、地名をいいかけた歌であり、また「今ぞ蘆邊に來よるなる」という格であれば、これも清州の事と思える、徹書記はこの清須に鶴を詠んだ由あり。

以下は最低限の現代語訳と補正を加えています。


『慰草』

都で度々お逢いしていた優婆塞に誘われて、田んぼの中のような所に着いた。そこは家も広く、国郡の政を行い、百姓を思いやり、朝暮に廃れなかったので、門前市をなすようで、都の外という心地もせず、十日ばかり滞在した、云々。寝殿の南面を見ると、普段見かけない俗が四五人、子の姿のきよげに、あげまき(裳)の格好もただならぬ二人が見えたので、問うと、東の方から来た旅人で、このあたりにしばし留まる事があると答える、云々。かの旅人の童は、連歌の道をたしなみ、手跡も頼もしい、云々。こちらに立ち出でて、絶えず問い聞きされるので、心恥ずかしい。物語などする程に、さまざま真をもあだ事をも隔てなく、自然と濡れ衣言い出す人もあるべし。さるは狩場の習いになれているからか、和歌のうらわの捨舟も、終にいかなる所に流れ着いたのか、関守の打ちぬる宵の月景、また身を知る雨の夕暮が訪れる時、自然と夏衣を重ねた夜半を恨み、菅のむしろが長くない時を嘆くこともあろう。あしたになれ行き夕にむつれて、五月六月が過ぎる。 ある夜の月に川近く誘われて、

更けにけりながるゝ影も川浪のきよすにすめる短夜の月 正徹法師

この所をきよすと申している。

夏の夜の風のきよすに住む鶴の霜のふり羽の色ぞさむけき 同

『宗長手記』

淸須の旅宿は坂井攝津守、庭ひろく古き館の、堀をめぐらし、柳の古木、藤・山吹の岸、池のさゞ浪、水鳥どもの羽うちかわすさま、絵にでも描きたいように見える。

咲きさかず木は夏木立花もなし 宗長

緑陰が花に勝ると言うべきか。『さきさかず』は花の咲かぬ木も、咲く木も、緑陰は同じようだというべし。この館は代々守護所。招月庵正徹の『東國道の記』にあり。
筑前守亭にて、

朝雲はゐるやしのゝめほとゝぎす

筑前守息藤左衞門宿所

夏やとき卯月ばかりの宿の藤

伊賀守亭

卯の花はきよかる波の垣根かな

このような事は自然の事で多い事だろう。
高畑孫左衞門宿所

水鷄なくあし原くらき朝戸かな

藤左衞門が短冊書いてと一両枚出される。何とも心得無いが、とにかく否定できず、

かねてより都のつてのふみにだにうとき今はの老ぞくやしき

このたび、はじめての見参のこころである。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

清須市清洲3丁目10番地3
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