岩倉村下市場にある。はじめ同村のうち、新光寺という地にあったが、中むかしの頃こゝに移ったといい伝わる。思うに、新光寺は、むかし新溝寺といったものがあったが、廃れて地名となったのかもしれない。また新光寺橋というのも今猶ある。共に「新溝」の証明とするに足りる。

山内対馬守一豊 ~夫の一大事がある時は差し上げよ~

岩倉村の人。はじめ十三歳に父に先立たれ、成長の後に猪右衞門尉と名乗って信長公に仕える。信長公失せなさると秀吉公に従い、天正十一年(1583)若狭小浜の城を賜う。同十三年(1585)近江の長浜の城に移り、対馬守という。十八年(1590)遠江掛川の城に移る。慶長五年(1600)神君(家康)の景勝追討の時、一豊は先陣にあって下野國宇津宮に至り名を上げる。この年、土佐國を賜い、土佐守に任じられる。同じく九年(1604)従四位下に叙し、同年九月二十一日卒したと『藩翰譜』に見える。 これは土佐侯(公爵)の祖である。

一豊が織田家に仕えた初めの頃、 東國第一の名馬なりという馬が安土に曳いて来られたが、高価だったので誰も求める人も無かった。一豊もほしく思ったが、身貧しければ同じく諦め、家に帰って後ひとり言に、「身貧しきほど口惜しきものはなし、一豊が仕えるはじめのことだ、 このような馬に乗って見参に入れば、 屋形(信長)の御感にも預るべきものを」といったのを、その妻つく〴〵と聞き居て、「その馬の値はどのくらいか」と問う。黄金十両と言っていたと答える。妻は左程にと思い、「その馬求めなされ」と言って、鏡の箱の底より、黃金十両を取って差し出した。一豊は驚き、「近頃貧しく、苦しい事のみ多いなかで、この黄金があったとも知らず心強く思った。しかしながら今この馬を得るべきとは思いもよらない」と悦んでいたら、妻がのたまうには、「ことわり(理)ではある、しかしわらはこの家に参った時に、夫の一大事がある時は差し上げよと父より賜った金である。家が貧しく苦しむという事は、世の常のならいである。この度都、御馬揃えがあると聞いた。そのような時は、天下の見物であり、かつ仕えのはじめと思えば差し上げるのだ」と言ったという。そしてこの馬を買い、信長公に見参に入ったが、御感は非常に良かった。のちに、身を立てたのは、全く妻の心得が良かったためである。

山内一豊誕生地碑

一豊の出生地は黒田説(『一豊公記』の附属史料)と、岩倉説(岩倉の人とする『張州府志』『尾張志』を受け岩倉誕生説をとる『愛知県傑人伝』『愛知県史要』)とあり、両地域の鍔迫り合いは激しい。『岩倉町史』は岩倉で盛豊が戦死したことは明らかだが一豊誕生地として断定することは早計であると慎重な立場である。

黒田では昭和十年に法蓮寺に出生地之碑が、大正六年黒田小学校の一隅に山内一豊 此ノ城ニ生ルという碑が建立されている。

山内家顧問・沼田頼輔氏の研究では岩倉説を入れ、昭和十年に山内豊景元公爵は当寺境内の山内家元屋敷跡に建てられた一豊公誕生地碑に
贈従三位山内一豊公誕生地碑
の籇額をよせた。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
岩倉市史編集委員会『岩倉町史 上巻』(岩倉市、昭和六〇年)434-

岩倉市下本町下市場25番地
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