最澄が開基した。弘仁年間、天台宗・最澄が比叡山坂本の山王権現を当地平野庄へ遷し、その際に安八太夫安次が社殿を造営した。山王の西の波止に堂宇を建て「新響山波止寺末守弘仁院」と号し、最澄が円頓の教えを末世まで守ろうとした。本尊は最澄作の阿弥陀如来である。最澄が感得したという仏舎利も当寺に安置されている。住職の記録は失われているが、享徳年間に第四十八代権大僧都・宜秀法印が住職であった。

当寺の鎮守は勝手大明神で、建立と同時に最澄が勧請し、最澄自作の束帯姿の不動明王像が社内に鎮座している。小比叡の里が分村した際、その一村の氏神として崇敬され、村は當院の「末守」を取り末守村と称し、境内の一部を宮地とした。

文明年間の真宗大谷派へ改宗後、当社は神戸村の善学院へ遷宮され、万治元年の再建時に当村の五名(佐左衛門・孫左衛門・小左衛門・太郎兵衛・七郎兵衛)が宮の管理を村方に任せることを願い出て許され、以後村方が宮を支配することになった。

参考:『由緒之覚』(天明四年-1784-、当寺から寺社奉行所へ届出たもの)

安八郡神戸町末守
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