小折村にある、碑銘塚。形から名付く。天正十二年(1584)の合戦、小牧長久手の戦いに、神君(家康)が信雄とともにこの上に登り、敵軍の数や備え等を見た所である。天和年中(1681-1684)当所の領主生駒氏が、祖先のためにこの丘の上に石碑を建てる。銘文は江戸の林学士。また趺石(台石)に尾張詞臣並河魯山の文も彫られている。以下は碑文より現代語訳。
天地は生の根本であり、先祖は類の根本である。孝行な子や慈愛に満ちた孫は、その根本を知らなければならない。尾張國の士の生駒主計利勝、その祖の為に碑を小折村富士塚に建てる。先祖の功績を著し、慶を述べ、名を揚げ、多少の履歴を記そうと考え、詞を私に請う。私はその根本を忘れないという志を感じた。生駒家の家伝には次のように記される。
昔、忠仁公が山荘を大和國生駒郷に建てる。その末裔は代々そこに居て、遂に生駒を氏(苗字)とした。その後、裔は尾州に移り住み。小折村を領知する。左京の進・生駒家廣は、利勝から六世の先祖である。文明年中(1469-1487)すこぶる名声を博した。その次が加賀守豊政、その次が蔵人家宗、その次が八右衞門尉家長で、代々続いて尾張の士となる。右大臣織田信長は家宗の娘を娶り、二男一女をもうけた。その長男は秋田城の介信忠で、次男は内大臣信雄である。その娘は岡崎三郎源信康に嫁いだ。こうして、信長の家長への重用は浅くなかった。
天正十二年(1584)。信雄は豊臣秀吉と不和があった。信雄は志を東照大神君(家康)に通じて、軍事を協議した。神君(家康)は尾州に入り、兵を小牧山に置いた。信雄と共に小折村に赴き、家長の宅に到る。この時、家長は信雄の命を受けて、勢州(伊勢)の長島城を守っていた。嫡子の因幡守利豊はまだ幼く、庶兄(側室生まれの兄)の右近善長が家に在って迎えた。世の人は栄誉とした。神君(家康)は小折村から富士塚に登り、敵境を視察して小牧に帰った。やがて和議が成り、同十八年(1590)信雄は左遷され、家長もまた老いて閑居した。利豊は秀吉の命に応じ、関白豊臣秀次に仕え、従五品に叙された。慶長五年(1600)関ヶ原役で利豊は東軍の左衞門太夫・福島正則に属し、自ら首級を獲った。同年神君は国中を一統する(全国統一)。
貴胤(高貴な血統)で従三位薩摩守源公(松平忠吉:家康の四男)が尾張國を領す。利豊もまた命によって属し従った。その後、従二位大納言源敬公(徳川義直:家康の九男)が尾州に赴任した。利豊は手厚く仕え優遇された。采邑(知行地)も元通りだった。利勝は利豊の子で、藩主が正三位襲封の後、特に利勝を選び、令嗣(跡継ぎ)従三位中将の傳(教育係)となった。その家系はこのようであり、その実績もこの通りである。古に曰く、「先祖の立派な名声や優れた誉れ(嘉名美誉)は、子孫の礼服(冕服)であり、家を護る垣根や屋根(墻宇)である」と。利勝はもし祖先の残したものが無ければ、どうして今日の庇護を得ることが出来たのだろうか。今、先祖を奉る孝行がなければ代々の業績も不朽にならなかっただろう。遠くを追い、志を継ぐ者と言うべきか。ああ、百行にはみな根本があるものだ。根本が立ってこそ、枝は繁り葉は密になる。なお子孫(後昆)に対して期待する。詞は成った。かつ、これに関連させて銘を添える。
銘曰
小折之村。陟波高丘。富士不遠。累々塚幽。
松林接影。木曾入眸。西顧淡海。東指參州。
爰問絶景。猶記昔遊。藤縣岩存。李白憇休。
蠻國服信。以祀武侯。矧又此境。神君停輈
風拂旌旗。日照戈矛。耀榮一時。流譽千秋。
小折の村。波のような高い丘に登れば、富士は遠くない。重なる塚は奥深く静かに。
松林の影が接する。木曽川が瞳に入り、西に淡海(琵琶湖)を顧み、東に參州(三河)を指し。
ここに絶景を問い、さらに昔のことを記す。藤が垂れ岩が在り、李白は休憩する。
蛮国が服従し、武侯(諸葛孔明)を祀る。いわんやこの地は、神君が陣を敷く。
風は軍旗をはためかせ。日は槍や矛を照らす。栄光は一時に輝き、誉れは千年に流れる。
天和二年壬戌二月上旬
東武州學整宇主人林戀直民誌
参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)