萬歳 藪村に森福大夫・松福大夫・米福大夫、加木屋村に上大夫らの数人ありて、三河院内の萬歳と同流である。
そもそも人皇八十九代・龜山院の御宇、同国山田郡木ヶ崎長母寺の開山、無住國師のおはせし時、その寺領であった味鋺村に「有助」という者がいた。、彼は貧しく、年の初めには家々を回り、「福が来る」「寶が涌く」と歌い舞いって、物を乞い歩いた。國師はこれを憐れみ、本朝に仏法が広まることなどをまじえて、壽(ことほ:祝福する)き唄うべしとして、自ら頌歌を作り与えた。
然るに知多郡寺本村も、当山の領地であったため、相百姓が是を伝習したが、後世に公事が起おり、味鋺の萬歳は府下へ来られなくなり、ただその地頭のみが今も来て舞うという。知多の萬歳は、今や府下一般を舞い歩くので、知多郡萬歳とよばれる。すべて五萬歳として、唱歌も五通あうが、詞が長いのでここでは略す。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)