五輪塔四基のうち宝篋印塔二基が主従のものと伝えられ、正中の変(後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕)が失敗し、朝廷側で六波羅探題襲撃を企てたが密告され没した土岐頼兼の墓。北条氏滅亡後に土岐頼貞によって建てられたといわれる。
『諸書』によると
頼兼以下の土岐一族は正中元年九月十九日の早朝三千余の六波羅勢に宿舎を急襲され、小数で四時間も敵を寄せ付けず戦い、激戦のすえ多くは戦死し、残るは互いにさし違えて死んだ。六波羅勢の死傷者は273人とある。
また『伝説』によると
主な者の首は六波羅探題常葉範貞に見せられたあと、謀反の見せしめとして三条河原にさらし首にされた。一人命を助かっていた根竹十朗が、夜陰に乗じて主君頼兼の首級を奪い、密に帰り鶴ヶ城東の隠れ洞に埋め、自分も自刃して果てたという。
永保寺文書には、
頼兼の首級を奪った根竹十朗は京都南禅寺に逃れ、知僧に主君の回向を頼んで自刃した。二人の首級は南禅寺によって郷土に届けられ、城の東の隠れ洞に葬られたとも、頼兼の首は晒されず、頼兼の命令で切腹と同時に根竹は首を奪い敵中をのがれてここに埋め、自分も自刃したという。
参考:『瑞浪市史 歴史編』(瑞浪市、昭和四十九年)268-275頁