臨済宗浄戒山と号し京都妙心寺派に属する。所蔵の文書、絵画類も多い。
木曽義在が天桂玄長禅師に在号を需め「英山」と授けた。
戦国時代の木曽谷領主である木曽氏は、当初須原を本拠としていたと伝えられる。定勝寺の境内はかつての木曽氏の居館跡とされる。定勝寺は1387-88年に木曽親豊によって創建され、当初は木曽川の河畔にあったが、水害により数回破壊され、1598年に現在地へ移築された。
親豊は福島に八沢城を築いたが、少なくとも平時は1509年に木曽義在が上之段城へ移るまで須原に拠点を置いていたと考えらている。須原城は愛宕山の山頂に築かれた。規模は220×25連郭である。
義在が一二歳の時、父・義元が、飛騨の三木氏(重頼とされる)に奇襲され奪われた王滝城を取り戻そうとした途中、三木氏との戦いで負傷し没した。その後、義在が一七歳の時に飛騨勢への対応や松本平の小笠原氏との連携に有利な福島へ移った。山城を構え、その村麓の上段(現大通寺の位置)に居館を置いた。中年須原の館をも修理し、ここにも居た。
義元は明応五年(1496)定勝寺へ太鼓を寄進した。この太鼓は胴囲六尺一分の大きさである。
『日本城郭大系』によると、義在はその後も福島と須原を行き来していたが、義康の代には福島が正式な本拠となった。定勝寺が移築されるまでの須原の館の扱いについては不明である。
参考:
『大桑村誌 上巻』(大桑村、昭和六十三年)179、180、209頁https://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kisoshi.htm