光明寺村にある。天台宗、春日井郡野田密蔵院の末寺。山号は遍照山。天武天皇の白鳳六年(666か)の建立で、『蓋嚢抄』に飛鳥浄御原の御宇の丁巳小乙中葉に栗臣人麿が始めて建立し、「はぐりの尼寺」と名付けた事が記された古刹であるが、中世に廃絶し、その後再建した寺である。
この僧は、同寺の住僧で、軍学を好み兵書を暗記していた。家康が信長公に面会した時、意足は信長公の側におり、信長公が「この僧は兵学を好み、八幡太郎の伝を得ている、我はこれを学ぼうと思ったが、源氏でないので授れず。君は源家の裔孫なので、その伝を請いなされ」と仰せられたので、家康は喜び、意足を浜松に連れて帰り、こと〴〵くその伝を受けなさった。八幡太郎は源義家の異名で、源氏の基礎を築いた。
意足によれば、「八幡殿の伝を請いなさる上は、義家の家の字を用いなされ」と申したので承諾し、「元康」の元の字を「家」に改めなさったという。そのむかし拝領した家康の御書、天正十二年三月二十三日賜った制札等、光明寺に所蔵する。意足は当所の城主神戸伯耆守の一族であるといい伝えられている。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻五』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)