北村の人で、拾穂軒と号す。幼ない頃から学を好み、産業を事とせす、一結皆癡見と曰う。平生、妙豆を嚙み書を読む。学は大いに進み、名は益々高くなり、ある諸侯は禄三百石で招いた。親族は皆怪んで曰く「癈兒無能何の求むる所あり之を聘するや」と。季吟は辞退して応じず。後に京に移り、新玉津島祝人の家に寓し、盆古書を研究し、詞学の祖となる。後に徳川氏が召して法印に叙し再昌院と号す。歌学所預となる。諸学士はその学力を試そうとして奇僻艱澁の問を発したが、辨晰流るるが如く一つも屈せず、衆皆舌を吐く。著書頗る多く、『源氏潮月抄』が世に伝わる。宝永二年(1705)六月卒し、年八十六。子・湖春がその業を継ぐ。
通稱は伊平篤所と号し、季吟と同族である。壮年(働き盛り)の頃から伊藤仁齋を師とし、親しく教えを受けること二十余年、学成り行も修り、その名世に聞わる。元禄年中(1688-1704)霊元上皇に召され経書を講した。その因で中山硯を賜った。今猶、北村の木村氏に所蔵している。八十余歳で死去し文英先生と謚(おくり)す。木村氏の祖・鳳梧また仁齋の門人であった。
参考:『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)