不破郡。高地に跡があり、南宮神社の鳥居の西である。今に長屋屋敷と言って残っている(垂井城)。
長屋氏は相模国長江の長江四郎左衞門義景の血を引く。二子あり四郎明義・八郎師景という。明義の子を四郎胤明、師景の子を四郎左衞門秀景という。胤明は承久の乱(1221)の戦功により、相模国長屋を得し、その子彌七郎行景が「長屋氏」を称した。
行景の子・小四郎景頼(行清)は、一族の長江秀景(行阿) とともに美濃に移った。長江氏は不破郡居盆(今須)に居り、長屋氏は初め本巣郡長江に住んでいたが、のちに不破郡垂井に移り住む。垂井の村社・八重垣神社は景頼が創建したといわれる。
このとき同行した長江秀景の系統は、不破郡居盆(今須)に赴き、與一頼景、四郎左衞門尉景助(行昇)、八郎左衞門尉重景(高峯行妙)と続いた。重景は妙應寺を開基した。
(『美濃明細記』長江系圖)
景元の孫の長屋大膳亮景興は、赤坂を切り取って領知を広げ大野郡相羽城(大野町相羽)へ移った。土岐氏に属して二万石相当の土地を領するまでになった。
しかし、天文一六年(1547)土岐頼芸が斎藤道三に追われ大桑城(山県郡高富町)へ退去した際、景興は道三に従わなかった。そのため同年十一月十一日、子の景直とともに戦死した。
景興の弟である長屋将監景重は垂井に居たが、その後のことは史料がなく分からない。(『美濃明細記長屋氏系図』『妙応寺蔵長屋氏墓碑の覚』)当地に天明八年(1788)建立の長屋氏記念碑が残っており、以下碑文。
鎌倉権五郎平景政七世之孫長屋小四郎景頼承久之乱自相州来濃州宗秀宗房景家景国景森景元景教将監景重至天文九世住足井此所即其旧地也今敷地一町三反歩
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)429頁
『新修 垂井町史 通史編』(垂井町、平成八年)175、177頁