遠来より患者来る小池家

寛永三年(1626)に小池玄芳が開業した。玄芳は医を以て豊臣家に仕え、豊臣家没落後池田町屋村に移り住んだといわれる。明治の自由民権運動家小池勇はこの小池家の子孫である。

小池家は代々眼科が専門で父祖伝来であった。本道すなわち内科をどの程度扱っていたが不明だが、寛政七年(1795)五代弁柳が水野代官へ患者数を報告しているなかに、本道・眼科と記載している。小池家五代弁柳・七代良慶・八代信治郎の医術修行の経歴をみると、家伝の眼科については父祖より伝授され、本道その他については、それぞれ名古屋の医師へ入門して修業している。尾張藩では医師養成機関に医学館があったが、在地では各個に医師へ入門するほかなかった。信治郎は本道修行に名古屋伝馬町岡野春沢へ入門した。なお春沢方に、眼科・小児科をも修業させたいと、父良慶から水野陣屋へ報告している。

寛政七年(1795)の水野陣屋への報告によると、眼病患者は内科の三倍以上だった。遠来からも患者が来て、寛政七年の口上書には、
近辺は勿論東は大井(恵那)・中津辺・苗木近在、木曽辺より見申し候、岩村辺・明知近在・上村・下村の辺、三州にては小原辺より池嶋近辺、足助辺よりも見申し候、尾州にては瀬戸・品野・本地・菱野辺・植田・山崎辺より相見へ申し候、それより西北は楽田・羽黒・犬山辺・兼山近辺・太田・麻生・和知・付知・加子母の辺
とある。入院患者は多いときには三十人が止宿していたというが、この報告書が出されたときには八人いた。

小池良慶は嘉永三年(1850)三月、名古屋呉服町医師・伊藤圭介より、さらに久々利の医師・浅井修真より種痘の技術を伝授された。イギリスのジェンナーの牛痘法が、享和三年(1803)に我が国に伝わり、嘉永元年(1848)に実際に種痘が行われるようになった。あるいは嘉永二年オランダ船が痘症を長崎にもたらし、蘭医が三児に種痘して肥前藩主鍋島直正がこの法を支持し、以後種痘が行われるようになったという。伊藤圭介は、尾張藩主斉朝の侍医で種痘取締役人となった小池良慶の師匠にあたる。本草学の大家で蘭学を学び、のちシーボルトの教えを受け文政十二年には『泰西本草名疏』三冊を著すなど、日本の植物学の草創といわれる。「おしべ」「めしべ」も伊藤圭介がこの書の中で初めて用いている。

参考:『多治見市史 通史編 上』(多治見市、昭和五五年)636-642頁

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