伊木山城跡

夕ざれば伊木の川風さそい来て

恵方山とも云う。東側に天守台まで五段あり、天守台(東西六間-約11m、南北四間三尺-約7.6m)石垣台形は現在も残る。南側は山がなだれて麓に木曾川が流れる。北側一面は切岸高く、岩石が累々。麓に小山があり、その邊りの鞠ヶ野に、諸士の宅趾・古井戸があり、土居形が残る。山の東端から少し北に岩穴が二つあり、一つは(丸さ四尺余-約1.2m-深さ一丈斗-約3m-)。

木曽川を隔て

各務郡伊木の城主は、信長公の臣・伊木七郎右衛門常籏〔範か〕である。この常籏というのは千葉氏の末流であって、後には秀吉の黄母衣衆となった。

幼年の頃は半七郎遠雅といい、後に七郎右衛門常籏と改め、剃髪して有斎と号した。常籏の祖父を武馬和泉守常春といった。当国美濃の遠藤氏(郡上)を頼り、享禄(1528-1531)の頃、下総国より来て織田備後守信秀に仕えた。その子を武馬七右衛門常重といい、織田信長、のちに豊臣秀吉に仕えた。

美濃国各務郡に伊木山という山がある。その下を伊木野という。木曽川を隔てて、東は尾張の犬山、西は美濃の伊木山である。その頃、この伊木山の城に香川左衛門尉という武将が立てこもり、信長に敵対していた。これによって永禄三年(1560)の春、信長の命により武馬七右衛門(常重)が先に登って戦い、伊木山の城を乗っ取った。信長は大いに喜び、その恩賞として伊木山の城を七右衛門常重に賜った。そればかりか、「末代までの名誉の印たるべし」として、これより氏を「伊木」と改めさせたのである。

家紋と和歌

さて、この城の本丸に石の井桁(いげた=井戸の地上部)があった。伊木氏の家紋は、千葉氏であるため「月星」であったが、この時より、「井桁」を家紋とした。その子が前述の七郎右衛門常籏である。常籏が伊木に住んでいた時のことだろうか、詠んだ歌に、

夕ざれば 伊木の川風さそひ來て 隈なき月ぞ 鏡野の里
夕方になると伊木の川風が吹いて秋の夜気を誘い寄せて、雲ひとつない月が「鏡野の(各務野)里」を照らしているよ
秋
伊木の川 玉ちる瀬々の岩波に 碎けてうつる 秋の月
伊木の川、水しぶきが瀬の岩波に砕け散りながらゆらゆらと映る秋の月
秋
伊木城の最期

天正十九年(1591)の秋、当城は破却された。天正年中(1573-92)のある夜、城主・伊木長門守正久が野武士等に襲われ、尾張の方の山名木津という所へ敵陣を追い詰めた。しかし、その隙を窺って賊等が辺りの隣村を狼藉して金銀を奪ったとの報せが入った。正久は家の面目を失い、生害として、手勢を引き連れ尾州・橋爪村の阿弥陀堂に火を懸けて一戦して没す。伊木正久の生害の後、遺命によって堂を正久寺と改めた。現在は日光山正久寺という。

この家の子孫は、文化十三年(1816)には備前侯の御家臣で、三万六千石を領していた。

参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より
『美濃雜事紀』(間宮宗好稿、文化十三年-1816-~)--『美濃明細記 美濃雜事紀合本』(一信社版、昭和7年)393頁

各務原市
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