恵方山とも云う。
この家の子孫は、文化十三年(1816)には備前侯の御家臣で、三万六千石を領す。東側に天守台まで五段あり、天守台(東西六間-約11m、南北四間三尺-約7.6m)石垣台形は現在も残る。
南側は山がなだれて麓に木曾川が流れる。北側一面は切岸高く、岩石が累々。麓に小山があり、その邊りの鞠ヶ野に、諸士の宅趾・古井戸があり、土居形が残る。山の東端から少し北に岩穴が二つあり、一つは(丸さ四尺余-約1.2m-深さ一丈斗-約3m-)。
天正年中(1573-92)のある夜、城主・伊木長門守正久が野武士等に襲われ、尾張の方の山名木津という所へ敵陣を追詰めた。軍の隙を窺って賊等が邊りの隣村を狼藉して金銀を奪う報告が入った。正久は家の面目を失い、生害として、手勢を引き連れ尾州・橋爪村の阿弥陀堂に火を懸けて一戦して死んだ。伊木正久の生害の後、遺命によって堂を正久寺と改めた。現在は日光山正久寺という。
参考:『美濃雜事紀』(間宮宗好稿、文化十三年-1816-~)--『美濃明細記 美濃雜事紀合本』(一信社版、昭和7年)393頁