大野郡、大野村相羽字村通にある。本丸後は高い所にあり、今は八幡神社が鎭座する。東や北の辺りで柱や梁のような木材を発掘することがある。
始め土岐二郎光俊が住み、國綱、國頼、國信等が居城し、のち廃れる。
天文(1532-)の始め、◎垂井城主長屋景教の子・長屋大膳亮景興(隨運と號す)が城を修築して居城し、土岐頼藝に仕えた。美濃守護は土岐政房の子・政頼が継いだが、西村勘九郎(道三)は政頼の弟・頼藝を擁立して、◎革手城で政頼を破って頼芸を守護に据え、自身が実権を握るに至った。勘九郎はのち長井新九郎、斎藤宗家の利良の死後は斎藤利政(道三)と称していた。
やがて当城は景興の子・長屋奥五右衛門景直が継ぎ、土岐氏に属し、二万石程領した。
天文十五年(1546)四月十八日、利政は景興を除こうと、小衣斐の大霊鳥寺に放火して相羽城に迫った。城に火を放ち攻囲戦を開始したが目的を果たせなかった。翌十六年(1547)十一月、利政は◎大桑城にて頼藝を敗かせた後、十二月十一日再挙して相羽城に迫ると、景興は防戦するもついに攻め落された。景興、景直父子は戦死した。続いて、◎揖斐城が落とされた。
天文十七年(1548)、尾張国の織田信秀は美濃へ侵攻し、利政方である◎長瀬城主(谷汲村)・鷹司政光と相羽で戦い、鷹司勢を破り、続いて長瀬城を攻略し鷹司氏は滅ぼされた。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『揖斐郡志』(揖斐郡敎育會、大正十三年-1924)
『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)202、203頁