大野村相羽字村通にある。本丸の址は高く、現在は八幡神社が鎭座する、その東や北の地から古城の柱梁樣の木材を発掘することがある。始めは土岐二郎光俊が住み、國綱・國頼・國信等相継ぎ居城したがその後廃る。天文の始め、長屋景興が垂井より移り城を修築して居城し、土岐頼藝に仕えた。
美濃の守護は守護・土岐政房の子・政頼が継いだが、西村勘九郎は政頼の弟・頼芸を擁立して、革手城で政頼を破って頼芸を守護に据え、自身が実権を握った。やがて勘九郎は長井新九郎と称し、斎藤宗家の利良の死後、頼芸の命で家名を継ぎ斎藤利政(道三)と称した。
天文十五年(1546)四月十八日に道三は、景興を除こうと、小衣斐の大霊鳥寺に放火して相羽城にせまり、火を放ち攻囲戦を開始したが目的を果たせなかった。十六年十一月に道三が山県郡大桑城にて頼藝を敗った後、十二月十一日再挙して相羽城に迫ると、景興は防ぎ戦ったがついに攻め落された。その後、揖斐城が落とされた。
天文十七年(1548)尾張・織田信秀は美濃へ侵攻し、利政方の長瀬城主(谷汲村)・鷹司政光と相羽で戦って鷹司勢を破り、続いて長瀬城を攻略し鷹司氏は滅ぼされた。
参考
『揖斐郡志』(揖斐郡敎育會、大正十三年-1924)815頁
『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)202、203頁