清須城は五條川の西岸にあり、古い松の樹が数株残り、三重堀の跡が僅かに残る。もとはその境地は甚だ公大であったが、年々田や畑になって、今のような有様となった。したがって天守台をはじめ、諸門・殿宇・官舍・土居等の名が、四方遠近の字に残るのみとなっている。当城は慶長年中(1596-1615)に名古屋へ遷した古い跡なので、並みの城跡と異なり、当所の林惣兵衞・櫛田源兵衞の二人が城跡守を命じられている。

守護斯波氏と清須築城

永和元年(1375)、当国の守護斯波右兵衞督義重が初めて当城を築き、守護代として家人を置いて守らせた。

斯波氏は、清和源氏八幡太郎義家朝臣の三男、足利式部大輔義國の二男、治部少輔義康九代の孫、左衞門尉家氏の三男、右近将監宗家の嫡孫、修理大夫高經、すなわち足利尊氏の一族である。その為、一時は朝廷と敵対したが、建武年中(1334-1336)に越前国で新田義貞父子を討ち取った功により、当国と越前、遠江の半分を賜り、青生尾張守と名乗った。その子である官領・左衞門佐義将はこの城を築いた義重の父にあたる。義重父子は歌人で、『新續古今集』等に選ばれている。

義重の子・治部大輔義淳、その子・治部少輔義郷、その子・治部少輔義健、その子・左兵衞督義敏まで、代々官領斯波氏を称し、当国及び越前・遠江の守護を務めた。彼らは自らは京都に住まい、家人を当国へ下して、国務を執り行わせた。ところが、次の守護となった治部大輔義廉は、他家から斯波の家を継いだ身であったため、義敏と不和となり、ややもすれば合戦にも及ばんとしたため、文明九年(1477)義廉は自らお国入りしてこの清須に在城することとなった。

織田氏台頭

それから斯波氏の左兵衞佐義寛、左兵衞佐義逵、治部大輔義統まで代々当城に在った。しかし、家老の織田大和守入道常祐とその弟の因幡守等はほしいままに国政を執行し、その威権は守護を凌いで主家を蔑ろにする有様であった。

天文(1532-)の初めに常祐が死ぬと養子の彦五郎信友が家督を継いだが、ますます暴威となった。そこで天文二十三年(1554)、義統の家人である梁田彌次右衞門や那古野彌五郎等が謀り、信友を誅殺しようとした。

その頃、斯波義統は当城の本丸に居住し信友は次の郭に居た。彌次右衞門等は信長と示し合せ、七百余騎で当城に押し寄せ、信友を攻め立てたが、信友の家人は多く、強剛であったため落とせず、一旦和解して引き揚げた。

この一件で、彦五郎信友は主君・義統を逆恨みするようになった。同年七月十二日、義統の嫡子岩龍丸が家人も多く引き連れ堀江村へ川狩に出かけ、城内は手薄になった。信友は家人の織田三位房や坂井大膳亮等数人と示し合わ、突如として本丸へ取りかかり、攻めかかったのである。

不意を突かれて、森刑部少輔、同掃部、丹羽左近等は城の内外を走り回り防戦したが、ことごとく討ち取られ、ついには義統をはじめ老臣三十四人は自害して果てた。川辺でこの逆乱を聞いた岩龍丸は、直ちに那古屋に逃れ、信長を頼って、ひとまず天王坊へと身を寄せた。

こうして信友は、主君を殺して当城を乗っ取った。信長はその不義を憎み、日ならずして軍兵を差し向け、逆謀の張本人・織田三位房等八十余人を討ち取ったが、折しも駿河の今川家が、当国を侵攻すべく軍勢を差し向けてきたので、その防衛に手を取られ、その年はそのまま暮れたのである。

斯波氏断絶

翌年二月になると、信友の家老・坂井大膳が信長に和睦を求め、信長はこれを許した。叔父の織田孫三郎信光を当城の南の丸に移し、信友と信光を「両守護代」と称して、和睦を整えた。

こうして四月十九日、信光が入城した。ところがその翌二十日、信光によって大膳の兄・大炊助を城中にて誅殺される。大膳は城を逃げ去り、信友も叶わないと観念したか近習五、六人を召し連れ、紛れ出ようとした。だが、かねて手筈の狼煙が上がるや、信長は那古屋から大軍で押し寄せ、ついに信友を誅伐した。

さて、信長公は那古屋より当城に移り、義統の嫡子・岩龍殿を元服させ、斯波治部大輔義銀と名乗らせて補佐した。永禄四年(1561)、義銀は浅はかにも三河の吉良義安や、当国の戸田の石橋義忠などの一族と語らい、信長を亡ぼそうと謀った。信長は怒り、「恩しらずの愚将、国家を治むる器にあらず 」。義銀を追い払い、吉良や石橋をも国中から追放した。名門・足利武衛の家系も、ここに至って断絶したのである。

同年秋、信長公は上洛し、尾張の守護職に任命され、その威勢は比類なきものとなった。

信長の官位

当城の歴代城主はいずれも武功が多い中で、信長公は当国の出身で、軍功も抜群なので、ここにその事蹟をしるす。

【出自】

  • 父母:織田信秀の嫡男(『公卿補任』『十四巻系図』)。母は土田下総守源政久の娘(『名古屋合戦記』『織田系譜』)。
  • 誕生:天文3年(1534)正月、那古野城に誕生(『名古屋合戦記』)。天文4年に父・信秀は古渡の新城へ移るが、若君(童名・吉法師)は那古野城に留まり成長した(『名古屋合戦記』『織田真紀』)。

【官位・昇進】

  • 天文20年(1551):上総介を自称(『織田真紀』)。勅裁なき私称は当時の武家の習い。のち正四位下・弾正忠に任じるが年月不明。
  • 天正2年(1574)3月18日、41歳:参議に任じ、従三位に叙される。
  • 天正3年(1575)11月:4日権大納言、7日右大将(『公卿伝』に陣宣下とあり)。
  • 天正4年(1576)11月:13日正三位、21日内大臣。
  • 天正5年(1577)11月:16日従二位、20日右大臣。
  • 天正6年(1578):1月6日正二位。4月9日、両職(右大臣・右大将)を辞す。
  • 天正10年(1582)6月2日:京都本能寺で光秀により自殺。同日、勅により太政大臣従一位を贈られる。
信長 清須城主時代の武功

おおよそ、この信長の度量は大きく、智勇が備わっていた事は、よく人の知るところであるから、ここでは略す。

そのうち当城主だった頃の武功は、まずは弘治元年(1555)四月、那古野の城より移り、翌二年(1556)八月に稻生合戦、同三年(1557)正月には弟の武蔵守信行に不義の企てがあったため、謀って当城に招き寄せ殺させる。

同年三月、美濃の齋藤道三が、その子・義龍と戦った折、道三から加勢を乞われ、信長は木曽川を越えて墨俣に出陣した。現地では、里人たちが藪陰から錢の入った瓶を堀り出した騒ぎ、集まって奪い合っていた。これをご覧になっている最中、道三が討たれたとの報が入り、ただちに清洲へ引き揚げた。

また、岩倉の織田信安が従わなかったため、永禄元年(1558)七月と翌二年(1559)三月両度に岩倉を攻め、続いて犬山の城を落とす。

翌三年(1560)五月には、桶狭間で今川義元の大軍を討ち取り、翌四年(1561)五月には美濃の森部で能興と戰った。さらに翌五年(1562)五月の美濃賀留美合戦、翌六年八月の美濃猿啄・堂洞を討ち、軍功を挙げた。

こうして、弘治元年(1555)三十二歳で当城に入城し、九年の間、当城主であったが、永禄六年(1563)亥九月、同郡小牧山の城へ移った。その後、同八年(1565)八月に美濃稻葉山の齋藤龍興を亡ぼして、かの城に移ったのである。

織田信雄が城主の頃

その後、城主は内大臣・信雄(信長の次男)となった。『尾州長久手戰記』(根岸直利著)に記すところによれば、小牧長久手の戦いの折(天正十二年-1584)、次のような一幕があったという。

十三日、家康が尾州春日井郡清須で信雄に謁見した。
「秀吉襲い来たら、吾よくこれを防ぐ。卿はその心を労する事なかれ」
家康がそう断言すると、信雄は大いに喜び、家康の早速御動座の段に感謝した。

このとき、池田勝三郎信輝(入道勝入)は故信長の功臣であり二心なき者といえども、秀吉が国郡を増封することを約束し誘われると、義を忘れ秀吉に属してしまった。森長可・堀秀政・蒲生氏郷等もまた同様であった。ところが、その勝入、長可、秀政から、「予戦で勝利を得た後、五ヶ国ずつ授かることになれば、再び味方に戻ろう」との密旨が伝えられた。家康は一笑し
「主君を捨てて賊臣に従う不義の族が、味方に復するとしてもどれほどの事だろうか、相手にして彼らに欺かれるな」
と取り合わなかった。

『重修續王代一覽』に、天正十五年(1587)十一月、信雄は清須にあり、このとき豊臣秀次が権大納言に任じられている。また天正十九年(1591)二月六日、関白(秀吉)が江戸亞相公(家康)と共に尾州清須に狩りを行ったと見える。

清須遷府

その後、豊臣秀次公、福島正則、性高院君へと城主となった。やがて、城地に水害の恐れがあるとして、慶長十五年(1610)名古屋に遷された。清須城は廃され、旧跡を残すのみとなった。当城の事は、清洲大評定をはじめ、事績が殊に多いといえども、世の人が広く知るところなので、ここではただ城主の歴代のみを略書して、そのあらましを記した。

当所の城址は歴然と残っているが、その由来を記した碑銘、及び城主の碑石等を建てた事も無かったが、江戸末期において当所の武田某志が発起し、古城の遺石を以て『右大臣織田信長古城跡』と刻んで建てた。また同所の林某、伊勢の拙堂翁に銘を乞いて、銘文の碑を造立したことから、旅人は杖を留めてその旧跡を賞讃する。また碑銘及び古瓦の石摺は、林氏より出された。

今殆三百年。薄海無風塵之警。可謂無前大勳矣。而右府實爲之唱。其功亦不小也。蓋霸主之功。雖須人力。其創業開基。亦不可不藉地勢。故右府之擧兵。首據清洲。平定國内。威聲始震。東伐西征。所向有功。遂遷於美濃徙於安土。其業始大。雄視天下。以立後來混一之基。然則清洲之地。比之蜀漢之襄陽。李唐之太原。誰謂不可也。且此地之爲名勝也亦尚矣。神鳳鈔記清洲御厨。古今六帖咏清洲田鶴。及斯波氏以足利親族。爲本國守護。始城於此。扼東道咽喉。既爲重鎭。所以右府因之也。其後豐家以三好秀次。福島正則鎭之。非親戚則勲舊迄至昭代。亦封懿親大藩奠居於此。皆以其爲要地也。但地臨大川。屡被水害。慶長末。議移其樓閣門廡於名古屋。更増築之。金城煥然。四隣瞻仰。而此墟荒蕪。僅存二松樹。無過而問者矣。驛長林某。意甚憾之。以爲霸業開創之地。不當如此。謀欲建碑墟上。以昭示於世。介人來請文於余。余以爲林氏之意。欲審故存舊。亦屬闡幽之擧。其請不可拒。乃據圖詩。詳書其由。參以私見。以爲記。繋以銘。曰。
人代已改。城郭亦墟。興霜之地。委爲荒蕪。
青田歸鶴。視爲何如。唯兩松樹。昔人所餘。
英魂髣髴。或来倚歟。松乎其友。鶴乎其徒。
文久二年歳次壬戌夏五月 伊勢 拙堂隱士 齋藤謙撰

参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

清須市清洲
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