※詳細な場所は不明。少し南の中央線地蔵川橋梁は旧鎧塚橋梁だった為、ここに置く。
勝川村から出る。天正十二年(1584)長久手御陣の時、徳川家康はこゝに至り、川の名を問えば、勝川と申し上げられたので、殊のほかお喜びになり吉兆として直ちに旗竿に伐らせたという。江戸時代はここの竹を旗竿に献上していた。
『甲申戰鬪記』に、八日深夜零時小牧山を出馬し、市之久田村・豊場村・如意村を過ぎ、夜明け頃勝川村へ着陣、暫く御馬を休められた。郷士長谷川甚助宅へ立ち寄り、甚助に川の浅深・地名を尋ねた。詳しく申し上げれば、勝利の名に吉兆を祝い、湯漬を召し上がり、旗を揚げ、差物の竿を伐らせられ、御物の具をこの地で固めて御機嫌の上、御陣羽織を甚助に下賜し、小幡を目指して進んだ。この時の吉例により、 御旗竿を勝川村よりさし上げる。その川端に地蔵庵というものがあり、その節の御旗竿をこの地で洗ったことにより、今に至りその水に浸し、献上すると見える。
家康が御軍を発して小牧山を出て長久手の方に向かわれたが、この地の古塚に登り、四方を見下し、敵軍の様子をはかり、はじめて甲冑を着たため、鎧塚として今も古跡を残る。その他、しらみ塚・明ヶ松塚なども、この時より呼び初めたといい伝わる。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)