大野西濃山間地産の松茸は古くから知られていた。大野町の山林は主に赤松で、稲富から松山に至る山全体から松茸が採れた。天然の針葉混交林であった関係上、シメジ・椎茸等も出た。
『昭和十一年度版(1936)岐阜県産業総覧』によると、富秋・豊木・西郡地区で合計5675キロの収量があった。特に寺内・野・牛洞の山では大量の松茸が出たので、山地主では材木に勝る大きな収入源となっていた。
江戸期の牛洞山では松茸の採取権が入札で決められ、落札者は松茸の生え出しの多少にかかわらず運上金を納め、領主の食膳に供する御用松茸を上納した。また、牛洞役所では嘉永四年(1851)九月と安政二年(1855)十月に、茂原北方の豪商・渡辺惣左衛門へ知行所の松茸を進物として送っている。渡辺惣左衛門は芝原北方新町に住み、大名・旗本の御用達を勤める大名貸しを行っていた。なかでも郡上藩には安政二年だけで千三百両にのぼった。大垣・紀州藩とも関係があり、牛洞役所へも御用商人として出入りしていた。
寺内及び野の松茸山は地主でも自由に扱えず、区が取り仕切り、セリで競売し、その収入は区と地主が折半した。セリ主は客を招いて入山料を取り、余った茸は八百屋や料理屋などに卸した。山は秋の彼岸ごろから十二月初めまで縄を張った区域は入山禁止とし、昭和二十年代(1945-54)の寺内では入山料は松茸の多寡によって異なるが一人二・三円が普通だった。客の求めに応じて焼松茸・どびん蒸し・すき焼き等でもてなし、中には芸者を呼んでの豪遊もあったという(寺内・堀正味、野・内田栄覚・後藤明治、牛洞・山本長一置老の話)。
盛況を極めた大野町の松茸は、昭和三四年(1959)の伊勢湾台風により倒木等の大被害を受け、復旧が思わしくなかった。加えて生活の革新により薪炭の需要が激減したため、山の下刈や松ごかきが行われなくなり、現在では自生の松茸は殆ど見られない。町役場の指導により松山を整理し植菌を行って復旧を図ったが、その成果はあがっていない。
参考:『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)466、834、835頁