古老の話によると、明治末期には黒野の土場は上橋より下橋までの間に四ヵ所の船着場があり、その頃黒野に横山利左衛門という回漕問屋があった。船着場・倉庫・荷物置場・事務所を合わせたものを土場といい、横山利左衛門は土場の頭領として、黒野の土場を中心に相羽近くまで数十艘の船を取り仕切っていた。

中央公民館の南の橋の東側には回漕店の大きな倉庫も建っていて、附近には段木・水がめ・土管・植木鉢・磨き砂などが野積みされていた。

当時の三水川は、高い堤もなく池沼地帯で、川の流れが多く入りこみ入江となり、ひとたび雨で増水すると、近くの光専寺の梵鐘を鳴らして、土場の米・麦・石灰・木炭・割木などの流没を防いだ。

嘉永七年(1845)野坂峠を越え、谷汲山への参道の完成を記念し花立峠に宝篋印塔が建立された。

明治末期には黒野の一番南の船着場付近一帯に多くの石材が置いてあった。

参考:『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)883、884頁

揖斐郡大野町黒野176番地4
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