柿並村にある。真言宗、長野萬徳寺の末寺。
天文三年甲午(1534)三月の当寺の『勧進帳』によれば、白河院の御建立、承暦年中(1077-1081)草創とある。あるいは、白河院の治世にはすでにこの寺があり、そこで康頼が別に一堂を建てたともいう。それが享禄四年(1531)十月十三日の兵火で焼失し、大御堂と楼門のみ残った。天文三年(1534、甲午)三月、伽藍を再修したものの、慶長五年(1600)秋、九鬼大隅守が当郡へ侵掠した折に、坊舎を焼き払い頽廃した。後にこれを重修し、堂宇はかつての姿を取り戻した。
時に平治元年(1159、己卯)十二月。
源義朝は京の軍勢に敗れ、濃州青墓(現大垣市青墓町)の長者・大炊のもとへと落ち延びた。
ここからさらに東国へ下ろうとする義朝を、大炊はねんごろにもてなし、ここで年を送って静かに下向されよ、と引き留めたが、ここは東海道の筋ゆえ具合が悪い、早く尾張の野間へ至り、長田を頼むべしと先を急がせた。
そこで、宿の者どもが聞きつけ、二、三百人が押し寄せてきた。これを見た佐渡式部大輔重成は、討死して主君を通そうと、馬に乗り寄せ手の者を散々に蹴散らし、子安の森に入った。そうして「左馬頭義朝自害するぞ」と名乗りつつ、面の皮をはぎ、腹を掻き切って空しく果てた。
その間、義朝は大炊の弟・鷺栖玄光を頼り、夜闇に紛れ小舟に乗り、株瀬川を下り、十二月二十九日(絵伝は二十八日)野間の長田庄司忠宗(あるいは忠政)の館に着く。供は鎌田兵衛政清(あるいは正清・政家)、平賀四郎義宣、渋谷金王丸、そして玄光の四人である。忠宗は譜代の御家人であり、しかも政清は舅にあたり、君臣ともに心を許し、暫くここに滞留することとなった。
忠宗は、表向きは礼を厚くして、義朝を書院に通して、随陪の壮士を遠く離れた別間に憩わせ、台所には山海の珍味を集めて、饗応善美を尽くした。しかし、腹の底では密かに逆意を挟み、嫡子・景致(あるいは景宗)を別間へ招き、かねて六波羅殿から届いていた御教書の「義朝を討って差出せば、恩賞は望みのままである」旨を語った。景致速やかに同意し「そんな折も折、たとえ我が君がこれより東国へ下りなさったとしても、平家の権勢盛なれば、いずれは誰かの手にかかるに違いないでしょう。それならば我らがそのお首を討ち奉り、平家の恩賞を得て、永く子孫の栄華を全うするに越したことはない」と、腹の内を話したのである。
さて、義朝は武勇猛威の名将である。いかに小勢とはいえ、討ち取るのは容易ではない。万全を期して、まずは湯殿へ入らせる。その隙に、婿の政清を別間へ招き酒肴でもてなす。義朝が討たれたと聞いて政清が飛び出してきたところを、妻戸の陰に待ち合わせた景致が斬り伏せる。さらに、橘七郎は、無数の大力であるので組手と定め、彌七兵衛と養田三郎は、達錬の武者であるので、これを刺し殺させる、と密かに合わせて、 三人を床下に忍ばせおいた。
明くる正月三日、忠致が義朝の前に進み出た。この度の道すがらの労を休めて湯に召されよ、とねんごろに勧め、義朝は湯殿に入った。金王丸は御刀を持って控えていたが、しばらく経っても浴衣が差出されず、諸事が滞る。金王丸は大いに怒り、自ら取りに行った。
その隙であった。床下から橘七郎が飛び出して、義朝に組み付いた。しかし義朝は騒がず、心得たりとこれを押さえ、膝の下に踏み敷いた。そこへ続いて、彌七兵衛と濱田三郎も左右から打ってかかり、無二無三に脇の下を刺し通した。この時、政清の姿はなく、金王丸もおらず、ついに空しく没した(義朝、行年三十八)。
こうして御首を打ち取り、合図の者に渡して出たところへ、金王丸が帰り合せた。この有様を見るより早く、三人ともに湯殿の入り口で斬り伏せた。政清はそれとも知らず、忠宗の許で酒を飲んでいたが、この騒ぎを聞きつけ立ち出てきた。かねて妻戸の陰に待ち構えていた景致、逃さじと一刀に諸膝を斬って、討ち伏せた(政清、行年三十八。義朝と同年。最期の始末に諸説あれども略す)。
玄光も頭が討たれたと聞き、これは政清の仕業かと、長刀を構えて走り廻り、その政清はもはや討たれていた。さらば長田を討つと、金王丸と二人諸共、乱橋(乱橋は田上と長田の宅の間にある)で数多の敵を斬って廻る。そして長田を探したものの、父子の姿は既になかった。さては御首を携えて上洛したか、追い駆けるべしと、厩から馬二匹を引き出して飛び乗った「みごと遮る者あらば、立ち塞がってみよ」と叫んだが、遠くから矢が少し射かけられるばかりで、あえて近付くものもなかった。玄光はなおも大声で、「我はいま六十三歳、戦にのぞむ事十度、いまだ一度も敵に後ろを見せじ」と、逆馬に乗って馳せ行き、ついに鷲の巣に留まった。金王丸はそのまま都へ上った。一方、政清の妻は、夫の横死を聞くや走り寄り、屍を抱いて大に悲歎し、父の不道を恨みつつ、終に夫の刀を取って自害した。
こうして長田父子は、池に臨み御首を洗わせた。
(今、当寺の門前に「血池」というものがある。この池は天下に兵乱がある時に、池の水が血に変じるという。また傍に「下馬橋」というものがある。義朝の廟所を恐れて下馬した橋のことであろう) これを持って上洛し、六波羅の恩賞を望んだところ、清盛の喜びはひとかたならぬものであった。しかし清盛はその不義を憎んで、重賞を与えず、ただ「壹岐守 」の號を与えられただけであった。長田は案じていたものと違い、このままでは誅戮されるとも計り難かったため、早々に尾張へと下っていった。
このような非道の父子であったが、天理に背いた先の非を悔い、あるいは身の成行きを案じつつ、なんとかして年月を送っていたが、そのうち頼朝公の武威は日を追うごとに烈しくなってきたため、身を置く所がなくなり、父子十騎ばかり羽を垂れて鎌倉へ参り、自らの罪科を訴え出た。すると頼朝からは「よくぞ参った。なおも身命を惜しまず、抜群の軍功があれば、罪を許すのみならず、美濃・尾張を与えるだろう」との厳命があり、士肥大郎に身柄を預けられた。長田父子、誠に蘇生の心地して、喜びは骨髄に徹し、攝津の一ノ谷の合戦をはじめ、数度の戦いで戦功を挙げた。
そして、頼朝公の天下平定の後、上洛(鎌倉から京への)の途中で、当地に立ち寄られ、亡き父及び鎌田政清の石碑を建て、その菩提のために大御堂寺七堂伽藍を再興し、紀州高野一山の僧侶を請じ、供養を行った。こうして長田父子をこの殿の御墓近く引き連れて、「かねての約束通り、今身の(美濃)終り(尾張)を賜うぞ」と言って、磔にしてなぶり殺しにさせられたのである。
「はりつけ松」といって、今も山の上にある。何者がそうしたのだろうか、
ながらへて 命ばかりはいきのかみ 身のをはりをば 今ぞ賜はる
(:生きながらえて、命ばかりは壱岐守(息の上=まだ息がある)。 身の終わりを、今になって与えられる
との歌を書いて(この歌は一説には、長田の辞世であるともいう)、高札を建て、にくまぬ者は無かった。以上『平治物語』『參考平治物語』『東鑑』及び『繪傳』等を引き合わせて考訂して、その中からごく一部を略抄したものである。それからというもの、当寺の宝燈は断絶することなく、両将(源義朝と鎌田政清)追福の供養も怠ることなく行われている。
山門の西にある。治承元年(1177)、俊寬法師や丹波少将成経らとともに、平氏を討とうと謀ったが、事が露見して、鬼界ヶ島へと流された。その途中で髪を切り、名を「性照」と改め、かの島に居ること三年にして赦された。京へ戻った後は東山の双林寺に閑居して、『宝物集』を著した。また、阿波國の保司に任じられたが、その任期中に当寺へ水田三十町を寄附し、一堂をも建立して義朝の追福を行ったため、のちに寺僧がこの石碑を建てたという。
義朝墓の東にある。平治の乱の際、頼朝公は平家によって既に命を落としているはずであった。しかし、平清盛の継母池禅尼は慈愛が深く、とりわけ頼朝公の容貌は尼公が深く愛した亡き息子・左馬頭家盛に生き写しであったため、平清盛に嘆願して、ひたすらに命乞いして、ついに遠流の身となった。
頼朝公はその多大なる恩に感謝するため、境内に一堆の墳墓を築き、自ら八軸の妙典を書き写して、塚の中に収めて、尼公の追福の供養が行われたという。また、頼朝公がはじめ遠流になった時、禅尼の守り本尊の地蔵菩薩を頼朝公に授け、尼公は、「早く出家入道して父祖の菩提を弔い、この尊像に帰依し奉れ」と言い、頼朝公は当寺に寄附されたという。今もなお尊像は当寺にある 。
大御堂寺一山の中の、六院の筆頭(巨擘)である。内殿の本尊の阿彌陀如来は、親鸞聖人が彫刻したもので、水野家代々の守り本尊であるが、神君(家康公)もこの尊像に祈願し、大阪夏・冬の陣に勝利したことが、当山の『緣起』に見える。
中興の長圓法師は神君との御縁もあり、慶長年中(1596-1615)に家康がこの寺に訪れた際、「何でも望みがあれば申すように」と仰せられた。長圓は戦国の気風に倣い、「心のままに鹿狩りができる地、ならびに鷹狩りの許可(御免)を賜りたい」と願い出た。神君は僧侶としては不法の事だと思ったが、鷹簡(ふだ)・鹿簡、および小鳥の證章などを出すように命じて、担当の役人(有司)から下された。実に不律乱行の事であった。
次の住僧である秀圓法師は、あさましとしてこの簡を深く隠し置いたが、またその次の住僧・快圓法師の時に、ある人から例の鷹鹿の簡を乞われ、与えてしまったという。ただし小島の證章は、今も寺に伝わっている。
長田は水野氏の人で、神君との縁もあったため、その後も代々水野家から住職が出て、今も続いている。
織田三七信孝(信長の三男)の位牌がある。「右大将平 朝臣淨岸大禪定門神儀」と見える。天正十一年(1583)癸未五月七日、 秀吉公のために、この地で自害した。最期に一首を詠じた。
むかしより 主をうつみの 野間なれば 報(むくい)をまてや 羽柴筑前
その時、床間に掛けてあった古書の墨梅に投げ付けられたという血の付いた一軸がある。その賛
夜窓西湖ニ到ル夢ニ和シテ。月下花ヲ見テ老逋ヲ思フ。忽チ鐘聲ノ來テ呼ビ醒ス有リ。頭ヲ舉レバ半幅墨梅ノ圖。
樵嵓墅衲永瑾題云々
鎌田政清の位牌がある。密蔵院、龍松院、慈雲院、以上六坊。
参考
『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)