末廣町の東側にある。もとは名古屋城三の丸の天王社の南にあったが、慶長十五年(1610)御城築の時、徳川家康がみくじをとらせ、神慮に任せこの地に遷座させ、御城下の鎭守と定められた。
そもそも当社の祭神は、八幡宮(応神天皇)の若宮大鷦鷯尊(仁徳天皇)がおられて、八幡宮も相殿に祀られている。天武天皇の御宇(673-686)に始めて御鎮座され、延喜年中(901-923)再営を加え、その後安養寺という宮寺を建て、僧坊十二宇を置かれた。天王坊もその内の一宇だった。
しかし天文元年(1532)の兵火に罹り、神宮・僧坊もみな焼亡したのを、同八年(1539)再営されたと、『社記』にある。また『延喜神名式』に、愛知郡孫若御子神社(名神大)とあるのは、この御社であるという説があるが、若宮と呼ぶことから可能性があるように聞こえ、また牛頭天王の若宮かという説もあるが、共に確かな拠りどころもなく、かつ若宮八幡宮の称は古くからあり、世に知られているので、『社伝』に従って強いて私見を加えず。
六月十五日に試楽があって、翌十六日に神輿を三の丸天王社まで神幸、神主束帯騎馬で供奉する。母衣負二人・鉾八本・鎗・旗・獅子頭・及び山車七輛あり。中でも黒船の車は更に品格が変わっている。それ以外の六輛は四月の山車に等しく、人形からくりの奇巧は、大同小異にして、全て四月に劣らぬ大祭である(四月の大祭は東照宮の例祭)。美麗の行粧、また尋常の神事でなく、事が繁多であるのでここでは略す。
また仁徳天皇隆誕より百年にあたる年ごとの九月に、御霊祭の式がある。
仁徳天皇降誕。寛政元年己酉ニ至ツテ凡ソ一千五百年。城南ノ若宮祭奠テ設。雅樂ヲ陳ス。此ヲ賦シ之ヲ紀ス。
挺之
帝業曾テ統ヲ承ケ。神靈乃チ天ニ在リ。緬思ス淳化ノ世。猶記ス誕生ノ年。本自衣垂ル聖。唯國ヲ譲ルノ賢ナルノミ非ズ。多時土貢ヲ停メ。高處ニ人烟ヲ望ム。雁子歌相和シ。梅花頌始テ傳フ。宸襟儉約ヲ崇ビ。黎首陶甄ヲ荷フ。地ヲ堀テ氷室ヲ營ミ。溝ヲ開テ稻田ニ漑ゲ。三韓聲教曁ビ。四海渥恩宣ブ。古廟深松ノ裡。周墻列栢ノ邊。采椽質樸ヲ標シ。金鏡明蠲ヲ象ル。享祀殊ニ顒若。威儀更ニ肅然。新甞嘉粟備リ。祕祝送迎虔ム。初日簾幕ニ浮ビ。流風管絃ニ遞ニス。女巫鐸ヲ鳴シテ出デ。命士輿ヲ下テ前ム。殿角祥雲合ヒ。階庭福草鮮ナリ。太平樂事シ。筆ヲ援テ且ツ篇ヲ成ス。
若宮にて
としを経て御威ふりせぬ宮ゐゆゑ若宮としも世に稱ふらん 上田仲敏
参考:『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)