揖斐川を渡り、美濃路の一部である。

管理体制

渡守は沢渡村(揖斐川西岸)に住み、慶長十五年(1610)に幕府は屋敷高五石一斗を与えられ、大垣藩も毎年米一石を渡守給として支給した。寛永十一年(1634)には大垣藩主・松平定綱が新渡守七人を任命し、給分として畑五石七斗四升余を与えた。戸田氏入部後には、さらに畑四石二斗が加えられ、合計で九石九斗四升余の黒印状が下附された。また、沢渡村の船年寄・喜四郎には米十俵ずつが支給された。

沢渡村には渡船二艘と鵜飼船二艘があり、船賃は変動があるものの、元禄六年(1693)には人四文、馬八文、荷一駄八文であった。船は藩費で修繕された。

洪水

東岸の西結村の渡場は川瀬がかわって崩れることがあり、正徳二年(1712)に石籠を伏せて補強した。しかしその補強が洪水のとき対岸の堤防に悪影響を及ぼすとして、沢渡村など六ヵ村は撤去を水奉行・高木家へ願出た。その結論は明らかでないが、のちに西結村は享保十六年(1731)五月、渡場の公費修復と、渡場の三十間上流への積籠設置による保護の公儀普請を願出ている。

享保十四年(1729)、象が中山道から美濃路、東海道を経由して江戸へ送られた。揖斐川では浅瀬を歩行して渡った。

明治・大正の頃の渡船

船の大きさは幅九尺、長さ七・八間で、馬車二・三台、地車なら七・八台を収容できた。船着き場の近くに小屋があり、船頭が寝起きしていたので、一日中こしてもらうことが出来た。岡田式渡船が設置され、ワイヤーを両岸に渡し、このワイヤーと船を別のワイヤーで継ぎ、船が川の流れに流されないようになっていた。県営であり船賃はいらなかったが、夜こいでもらう人は志(チップのこと)をおいていった。

昭和の初め国道21号が完成し揖斐川大橋がかかると廃止された。

湊として

年貢米を積み出した。

参考
『安八町史 通史編』(安八町、昭和五十年)120、121、719、720頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)

大垣市
種別