源頼朝を祀り、社内には鎌倉杉があり、周辺には源氏屋敷や御所の前といった地名が残る。菊姫を扶持した信濃の小諸太郎光兼は信濃の滋野氏の一族で、源氏として鎌倉に仕えた。滋野・禰津・小諸氏は同族で、禰津氏は大井の伝説と関わりが深く、岡瀬沢に根津神平の墓などから菊姫居住説もある。

菊姫

寿永二年(1183)木曽義仲は信濃源氏を率いて北陸道から上洛し翌年には征夷大将軍となるが、京都で院や貴族の反感をかった。源頼朝の命を受けた弟範頼・義経に、宇治川の戦いで敗れ近江粟津で敗死した。文治元年(1185)五月、頼朝は、義仲の妹・宮菊に、遠山荘内の一村を与え、義仲の恩顧を受けた信濃国御家人小諸太郎光兼らに扶持を命じた。菊姫は北条政子の養い子(猶子)となり京都にいた頃、権威を利用して無効になった古い文書を用い不知行の所々を彼女に寄付し、その使節と称して荘園・公領を押妨する人が多く、幕府は菊姫を「物狂女房」として取り巻きを処罰した。しかし、頼朝は憐んで美濃に下っていた菊姫を鎌倉に召し出し、一村を与えた。

遠山氏により再建

永禄七年(1564)に、遠山左衛門尉景任が再建し、神事を行い猿楽を奉納した。再建棟札の写しには、野井城主・西尾無三延友、手金城主・遠山新右衛門朝清-西尾新左衛門尉時友、手向村城主・勝内蔵助義重-亦右衛門義氏、千旦林城主・吉村前七左衛門尉源斉-七郎左衛門尉氏為らが記され、武並神社が広い地域からの篤く信仰されていたことが分かる。

参考:恵那市史編纂委員会『恵那市史 通史編 第一巻』(恵那市、昭和58年)787、788、863頁

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