律令制によって、朝廷は全国に国司を置いて地方政治を管理していたが、源頼朝が弟・義経追補の為、朝廷に願い、国司に加えて守護を諸国に配置した。国司には公家が任じられ地方行政を、守護には武士を任命され治安維持に当たらせた。守護は次第に権限を拡大し、国司の行政にも介入するようになり、国司は有名無実化した。室町時代に入ると、阿波(土佐)・伊勢・飛騨の三ヵ国のみ国司が残っていた。
元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めで戦功を挙げた新田氏の一族・岩松兵部大輔経家が、倒幕の恩賞として朝廷から飛騨国守護と北条氏旧領十カ所を賜ったが、翌々年建武二年(1335)七月に北条時行の挙兵を防いで戦死した。その後、正平十四年(1359)に足利義詮は近江守護佐々木京極氏を飛騨国守護に補任したたが、飛騨北部には朝廷から補任された国司・姉小路氏が存在した。国司は本来遙任(ようにん-己は京にいて代理を派遣)が建前であったが、建武中興以後に飛騨国司に任命された姉小路家綱は、京から赴任し、信包城を拠点に小島・向小島等の諸城を築いて約70年にわたり任国経営に尽力し、高山盆地に迫る勢いだった。足利幕府はその拡大を警戒し、対抗するため佐々木京極氏を守護に任命した。
応永十八年(1411)七月、南朝最後の天皇といわれる後亀山天皇の命を奉じた姉小路家綱の弟・尹綱は荒城郡広瀬郷の広瀬常登入道を誘って倒幕の兵を挙げた。前年11月21日には、後亀山天皇が幕府に対し南北朝合一の条件が守られなかったとして吉野へ出奔されていた。幕府は、近江・京極氏、越前・斯波氏、信濃・小笠原氏に命じて五千の兵をもって三方面から飛騨へ侵攻した。国司方は五百余の劣勢で、合戦三ヵ月で敗れ、姉小路尹綱は討たれ、広瀬常登入道は斬首され、反乱は終息した。飛騨国司・姉小路氏を滅ぼした近江守護・京極高員は、家臣・三木忠右衛門正頼を遣わした。
しかし姉小路家の血脈は乱後も断絶せず、飛騨国司の名跡をついだ姉小路小島家が、飛騨北半を保ち戦国時代末期まで生き延びた。
八代将軍足利義政の失政に契機に、東西両勢力に分かれ諸国の軍勢二十万余が京に集結して十一年に及ぶ応仁の乱がおこった。姉小路国司家は小島家を頭領に向小島家らとともに西軍に属し、対抗して南飛騨京極氏の代官・三木久頼は東軍に味方して、飛騨の南北戦争が勃発した。姉小路家が西軍に加わったのは、西軍と旧南朝の残存勢力との関係によるとされる(『飛騨史の研究』多賀秋五郎)。やがて、文明二年(1470)秋に京極持清が死ぬと京極氏が分裂し、翌文明三年八月に姉小路基綱は乗じて三木某(久頼)を討った。京極政高は美濃守護代斎藤妙椿に援軍を求めたが、妙椿は姉小路基綱に書状を送り、和歌の同門の好から自重を促したいう。その後京極氏が優勢となったが、文明八年(1476)には国司側が失地を回復し、結局双方が和平するに至った。
以降、京極氏の統制から離れた三木氏の勢力は拡大し、四代直頼は萩原桜洞城を拠点に高山盆地へ進出し、五代良頼は中央から認められて従三位参議に任ぜられた。
松倉城を拠点とした六代自綱は、北飛騨の江間輝盛を討ち、飛騨を平定した。自綱は松倉城を子の秀綱に譲り、広瀬高堂城に移った。
自綱は織田信長の信頼が厚かったが、その恩義から越中の佐々木成政らと共に豊臣秀吉に従わなかった。このため、秀吉は越前の金森長近に高堂城を、長近の養子可重に松倉城を落とさせた。自綱は長近の軍に降伏して助命され、後に京都で死去した。
その後、長近は一旦越前に戻ったが、天正十四年(1586)に秀吉から飛騨三万三千石を与えられ、越前から移封された。慶長十三年(1608)八月に長近が没すると、飛騨は養子可重に、その他の領地の美濃上有地と河内の金田等は実子長光に与えられた。可重は高山城に移り住んだ。
参考
荻原町史編集室『荻原町史 第一巻・自然・先史・古代・中世編』(岐阜県益田郡荻原町、平成14年)215-219頁