寛永十年(1670)に入鹿池が完成し、用水が引かれ、新田開発が勧められた。
此新田の開発人は分からないが、入鹿池を構築した時、入鹿村より百姓が九人ばかり此の地へ来て土地を開墾し、入鹿出新田と名付けた。支邑に大屋(現大野)、牛屋という二つがある。この地の住家は四方に散在し、小百姓ばかりである。田畑に用水のかかりも悪く旱燥の地である。(『尾張徇行記』)
入鹿池の構築で百六十軒が水没し百姓は前原新田(現犬山市)や奥入鹿新田に、一部は入鹿出新田に移動した。
また、尾張藩は農民不足に対処するため、領内外を問わず、さらには重罪を犯した者であろうと罪を免除し、新田開墾にあたらせるという高札を出し、積極的に開墾を促した。
参考:小牧市史編集委員会『小牧市史 本文編』(小牧市、昭和五十二年)140-145頁